小説 | ナノ


▼ 愛の確認作業

 その行為に理由なんてない。愛が足りないとか、満たされないとか、そんな複雑な理由なんかじゃなくて、ただわからないだけだ。人を一人しか愛してはいけないという理由。だって、俺は、ちゃんと一人の人を愛したことがない。わからない。だから、辞められない。恋人がいるのに、誰か他の人を求めてしまうということを。

「ん......っは、ぁ」
「気持ち良い?」
「ぅん......っ!アッ!そこぉ...ッ!......っ!!」

 腹の中に注がれていく白い液体。俺は天井を見つめながら、熱い吐息を空中に漏らした。荒い呼吸音が部屋の中に木霊する。熱い。俺は髪をかきあげると、ゆっくりと瞼を閉じていった。
 虚しい。よく、わからないけど、心の中にはぽっかりと穴が空いていて、それはいつまでも埋まることはない。肉付きの悪い腹を撫でると、そこは男の精液でうっすらと膨らんでいた。心の奥底でわずかに警告音が鳴り響いている。俺はそれを無視すると、眠りの世界に身体を預けていった。



「先輩。せんぱーい。ねぇ」
「っせーな。んだよ」
「今日、先輩んち行ってもいい?」

 蜂蜜を薄めたような髪の色をしたこいつは、ゼミの一個下の後輩。背が高く、社交的で、甘いマスク。男女両方から好かれそうなこいつと俺は今、所謂恋人関係にあった。

「嫌だっつっても、来るんだろ?」
「まぁね」

 俺の返答を聞くと、こいつは薄い唇を携えた口の端を、左右均等に持ち上げた。色素の薄い瞳が俺を好きだと訴えている。その瞳を何故か直視できなくて、俺はふっと目を伏せた。心臓がとくんと音を立てる。その音の意味が、俺はまだよくわからなかった。こいつのことは好きだと思う。人間的に。優しいし、人懐っこいし、笑顔が絶えないし、一緒にいて気が楽。顔も悪くないし、何より俺のことを好きなところが気に入っていた。

「じゃあまた夜に」

 後輩はそう言うと、周りに誰もいないことを確認して俺の耳に口を寄せる。

「せんぱい。大好き」

 耳元で囁かれた声。その声に、身体中の血液がぶわりと沸騰していくのがわかった。耳が、顔が、熱い。脈がどんどんと早くなっていくのがわかる。

「かーわいい」
「うるさい」

 後輩の瞳がとろりととろけていく。俺は、恋人らしい行為にはあまり免疫がなかった。これまでの恋人とは身体を重ねるばかりで、愛の言葉を囁き合うとかそんなこと、したことがない。俺は肩掛けの鞄の持ち手をぎゅっと握り締めると、早鳴る心臓を無視して身体を反転させる。足を踏み出すたびに、心臓がきゅっと締め付けられる感覚がした。わからない。わからない。俺は自分の気持ちが、わからない。背中に刺さる恋人の視線が熱い。焼け付くようなその視線から逃げるよう、俺は早足で研究室を飛び出した。


 『好き』って、一体何なんだろう。『愛』って、何? 学生アパートのワンルーム。テレビをぼおっと眺めている俺は、後ろから後輩に抱き締められていた。

「せんぱい、すきだよ」

 自身の首筋に顔を埋めながら、後輩は何も考えず愛の言葉を囁いてくる。砂糖をどろどろに煮詰めたような甘い声。脳内に直接響くその声は、自身の思考までもどろどろに溶かしてしまうような気がした。背中に伝わるあたたかい彼の体温。腹に回された後輩の手に自身の手を這わせると、彼は「はぁ」と熱い吐息を漏らした。部屋を包む空気がじんわりと熱を持つ。俺は彼から見えないことをいい事に、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「せんぱいは、俺のこと好き?」
「・・・・・・」
「俺は、俺だけ見てほしいよ」

 考えれば考えるほどわからなくなる。親が好き。友達が好き。恋人が好き。その好きは何が違う? 肉欲があるかないか?

「ねぇ。一番に、俺を見て。俺だけを見て。せんぱい」

 でも、こいつは俺を抱かない。付き合ってもう三ヶ月の月日が経とうとしているが、この後輩は一切俺の身体に手を出そうとはしなかった。今も彼は、俺のうなじにキスの雨は降らすも、それ以上の行為はしてこようとはしない。最初は別に何とも思わなかった。だがここ最近は、手を出されないとわかるたび、何故か胸の奥がもやもやとした。彼の手を指先で弄りながら、俺はじくじくとした胸の気持ち悪さに見て見ぬフリをする。

『貴方だけしか見えないの』
『俺も、お前しか目に入らない』

 薄ら寒いドラマのワンシーンが、今はひどく耳障りだった。


 それから数週間。俺はまだ後輩と付き合いながらも、違う男に抱かれる日々を繰り返していた。きっと、これは辞められないだろう。罪悪感なんてまるでなかった。何が悪いのかがわからないのだから、反省のしようもない。未だに「好き」という感情も、「愛」という感情もよくわからなかった。

「寒っ」

 俺はだぼっとした長袖ニットの袖口を伸ばすと、両の手をすっぽりと覆い隠す。季節は秋から冬に移り変ろうとしていた。肌を撫でる空気が冷たい。昨日と対して気温は変わらないのに、何故か今日は一段と寒く感じられた。
 そういえば、今日は後輩からの連絡がない。いつも必ず『おはよう』の挨拶をくれる彼が珍しい。姿も見せようとしないなんて、何かあったのだろうか。何だろう。嫌な予感がする。胸の奥がざわざわとうるさい。手にじっとりと汗が滲むのがわかった。そうだ、研究室にいるのかもしれない。建物に向かう足が早くなる。認めたくないが、今はいち早く彼に会いたかった。
 いつもは沢山の学生がいて賑やかなその建物。それが何故か今日は不気味なほどの静けさに包まれていた。どくんどくんと心臓が大きな音を立てる。渇いた口からは、浅く細い呼吸が零れ落ちた。

「入るぞ・・・」

 ドアノブを掴む手が震える。俺は恐る恐るゆっくりと、いつもより重たいドアを手前に引いた。



「・・・・・・っ」

 研究室に足を踏み入れた俺は、息を呑んだ。物があふれた狭い研究室。その一室で、よく見知った顔が知らない顔と熱い口付けを交わしていた。二人の口から時折見える厚い舌。ちゅくちゅくと聞き慣れた水音が静かな部屋に響いている。彼らは、俺が入ってきたことに気付いていないようだった。逃げ出したくとも、足が動かない。指先がカタカタと震える。酸素を取り込もうとしても、上手く呼吸ができなかった。
 俺の肩からずり落ちた鞄が床に落ちて、大きな音を立てる。その音を合図に、目の前の男たちは口付けをやめた。窓から差し込む光が、彼等に架かる銀の糸をはっきりと浮かび上がらせている。頭に鈍器で殴られたような衝撃が走った。

「な、に、してんの・・・」

 喉の奥から絞り出した声は細く、掠れている。

「何って、見りゃわかりません?」

 後輩はもう一度、今度は目の前の男の頬に口付けをすると、真っ直ぐ俺に視線を向けた。今まで見たことのない瞳。胸に何かが突き刺さったかのように痛い。

「お前、俺のこと好きだって・・・!」
「好きですよ!好きに、決まってんだろ!」

 後輩が拳で机を叩く。ガンッと大きな音が部屋に響き渡った。甘い空気に満たされていた室内が、一気に張り詰めた空気に変わる。

「けど、先輩もしてたでしょ?」

『うわき』その三文字は、何故か上手く聞き取れなかった。後輩の声が、はるか遠くに聞こえる。呼吸が、上手くできない。酸素を吸おうとしても、喉の奥がツンと痛む。

「ねぇせんぱい。わかってくれた?」

 視界がだんだんとぼやけていく。はっきりと、俺は理解していた。何故人は、一人しか愛してはいけないのか。そして、俺が後輩に抱いていた感情の正体。でも、こんな形で知りたくなかった。痛い。張り裂けそうに、胸が、痛い。こんな気持ちを今まで、彼は、抱いていたというのだろうか。罪悪感と後悔、悲しみと怒り、色々な感情が胸に渦巻いていく。心臓のあたりをぎゅっと手で押さえても、この痛みは治りそうにない。

「すきだよ、せんぱい。だぁいすき」

 ぼやけた視界の中、甘いマスクの彼が恍惚とした顔で笑うのが見えた気がした。



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