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「…と、ここまでは覚えているな?」 ストーブのひゅお、ひゅお、と鳴る音だけが響く沈黙の中。 なまえは、まだ重たい頭で彼の言った事を思い返した。確かに、それらの事は覚えている。 「…で、続きだ。」 「あぁ〜、進ぅめ〜。勇ぅ敢なぁ〜る、兵っ士たちよぉお。迫りくぅ〜る、敵を、散らしぃ〜…」 音程を気にしないまま、彼が1時間程で帰ってきた。脇には、バターケーキではなく書籍を幾つか抱えている。 彼女が賢明に数式と格闘しているだろうと、思われる部屋のドアノブに手を掛けた。 1時間じゃ、まだ解け切れていないかな。 まぁ、その間に茶葉と牛乳を温めておこう。茶葉は何を使おうか。バターケーキがあるならジャムは不要か? そんな事を考えながら、彼は扉を開けた。 視界に入ったのは、なんだか以前、それもついさっき見たのと同じ様な風景だった。 問題を解いているであろう、彼女がまたも机に突っ伏しているのだ。 彼は、はぁ、とため息をつくと、コートを脱ぎ彼女の側に寄った。 今度は紙袋も無いので、どう起こそうか。 これといった奇策も無いので、肩をゆするという極々普通のやり方で起こす事にした。 「なまえ。起きなさい。」 起きない。今度は少し強く。起きない。 どういう訳だか、彼女は全く反応しなかった。どうしたものか、と彼は諦め、散らばるお手製問題集を拾い集めると、ざっくりと目を通した。 全て解いてある。別に怠けていたとかではなさそうだ。疲れて寝てしまったのだろうか。なら、先にバターケーキを適当に切り分けておくか。 そう思い直し、問題集を軽く整えると、円卓の上に置いた。 そして、気付いた。バターケーキが消えている。 確か、卓上に置いたままだと思ったが。気のせいだろうか。 彼は考えを巡らしたが、部屋にはほのかに甘い香りが漂っている。匂いはあるのに、形は無い。 ふと、円卓に頭を預けた彼女の顔を覗き込んだ。 今にもよだれが出そうに開いた口には、明らかにバターケーキの残骸とおぼしき、ケーキのスポンジ部分と、乾燥果実が、まとわり付いていた。 案の定といえば案の定だが、これは彼にとって、大きな精神的打撃を与えた。 思わず膝を付き、力なく床を眺める。 良い茶葉を選ぶつもりだったし、それを飲みながら、バターケーキをお供に、買ってきたばかりの書籍を読みふける予定だった。 それが、どうだい。まさか!と天を仰ぎたくる。ちょっとだけ、視界が滲んだ。 恨めしそうに、食欲が満たされたであろうなまえの顔を眺めた。 今すぐ彼女が起きてくれれば、心の底から詰ってやれるのに。 あぁ、両手を振り回して、床を転げ回りたい。 とはいえ、案外良い歳。滅入った頭の中だけで、散々暴れまくって、気持ちを切り替える事にした。 今日一番のため息を吐くと、彼女の白く柔らかな頬に指先で軽く触れ「幸せそうだな…」と呟いた。 そして、彼女の口元に付いている果実の欠片をつまみ、口に放り込んでみた。 砂糖とブランデーを煮詰めたシロップが、よく染みていて、とても美味かった。 その後、頬をつねる、椅子を蹴るなどして、彼女を起こそうと試みたが全くもって無駄だった。 観念した彼は、彼女を抱き上げ自分の寝室へと運んだ。耳元で聞こえる寝息が忌々しく思えたが、過ぎてしまった事はどうしようも無い。 そして、彼女をベッドの上に、そっと乗せた。
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