2 (2/8)
ほんの4時間程前の事。
広いリビングの真ん中に置かれた円卓。 その上には、いくつかの紙類が散らばり、そのうち何枚かは床に落ちたままになっていた。 その紙に埋もれる様に、なまえは円卓に突っ伏している。 固い卓上にのせていた額が痛くなると、今度は頬に変えて、おおよそ起き上がるつもりが無いらしい。 至近距離で散らばった紙をながめると、数字やらアルファベットやらが並んで、如何にも、じっくりと見る気になれないものばかりだ。 宙ぶらりんの両手が、メトロノームのように規則的に揺れる。利き手に持っていた鉛筆が椅子に引っかかると、それが煩わしいのか、卓上に置いた。 目の前に置いた、六角形の鉛筆を眺めると、散らばっているごちゃごちゃ、色々と書かれた紙なんかよりは、幾分かシンプルで興味が湧く。 手持ち無沙汰に、指先で転がしてみると、円卓を微弱に叩く音が突っ伏した耳に直に届いたり、光沢のある側面が、角度を変えるごとに光を持ったり失ったりと、案外面白いものだ。 単調に繰り返す動作は、身体と意識を切り離す要素を持っている。あと、暖炉もいけない。 この暖かさが誘惑を孕んでいる。 彼女の背後には、ぱちぱちと、音を立てては形を変える火が揺らめいている。 湿度を帯びた温度は、身体の内側まで包み込んでじんわりと、眠気を連れて来た。 伏せた身体も、意識もそれに逆らう事無く、なまえはすんなりとまぶたを降ろすと、外界との感覚を絶った。 鉛筆を弄んでいた、指も力なく円卓の下に落ちると、か細い息が聞こえるだけとなった。
「草〜原よぉ〜。血ぃにぬれたぁ、兵士ぃ〜達よぉー。恋しっきっ、祖国を思い〜…」
音程などまるで気にせず、身体をゆらしながら軽快に彼は階段を降りて来た。半世紀近く生きておいて、各方面から、ちゃいるでぃっしゅ、だと小馬鹿にされてきたものだが、そんな事も気にはしない。
「あぁ、降るーゆぅーきぃの………。」
続きが思い出せないらしく、鼻歌で濁すと、なまえの寝入っているリビングのドアを開けた。 何やら機嫌のいい彼は、脇に抱えていた紙袋を右に左にと器用に回すと、着ていたコートを脱ぎソファの上に放り投げた。 まだ、なまえが寝入って、よだれを垂らしている事には気付いていない。 茶褐色の程よい大きさの紙袋を、緩み切った顔で満足そうに眺めていると、視界の端に、うずくまった大きな物体が見えた。 あぁ、彼女か。 紙袋を眺めて悦に浸っていたのが、急激に覚めていった。 そもそも、何故彼女が円卓に突っ伏してずーずーずーずー、寝ていたりなんかするのか。 理由は彼にはどうだって良かったが、しかし、自分には彼女を起こす権利がある。 思いたったら迅速に行動に移すとしよう。彼は、紙袋の中身を円卓にそっと置いた。 彼が帰ってきた事も、自分の頭上で何が行われているかも知らないなまえは、浅い眠りの泉に浸り続けていた。 真っ暗なまぶたの裏に、本来見えるはずのないものが見えかけ、意識が本格的に溶け始めたその時。 突然、大きく乾いた音が鼓膜を振るわせた。 それは、彼女の故郷で行われる熊狩りの祭事で聞く、猟銃の音によく似ており、その音が身に迫る危機を連想させた。 耳元が危険を認知すると、脳より先に身体が動いた。 勢いよく立ち上がると、手を滑らせ、膝を円卓の裏にぶつけ、平衡感覚が正常に機能する間もなく、そのまま椅子と一緒に、床に叩き付けられた。 ついでに、あごも円卓で強打した。 こうも一度に身体的情報が多いと、処理が追いつかない。 まずなまえには、自身の身に何が起こったのかも理解していなかった。 意識としては、身体が反応したかと思うと、気付けば痛みに巻かれて、天井を見上げている。 視界がはっきりしている割には、意識は曖昧なままだ。 上下も左右も判らないまま、確かなのは体中が鈍く痛いという事だけ(あごだけが、強烈に痛い)。 言葉も発せず、床(案外冷たい)に背中を貼付けていると、のどで鳴らす特徴的な笑い声が耳に入ってきた。 天井しか捕えていなかった視界に、腹を抱えて、今にも泣きそうな彼の姿が入ってきた。
「いつまでも寝そ…べって…いないで……速く起きな…さ…い。」
時より、言葉が切れるのは喉の奥で息が切れ切れになるからだ。 どこで息継ぎをしているのか判らないような笑い方をしているから、こうなる。 彼に促され、なまえはゆっくりと立ち上がった。 視界の明瞭さと反比例して身体の感覚ははっきりしない。 ふらつく身体を安定させようと、円卓に手をつく。 彼女がのんべんぐらりと立ち上がる間に、彼は倒れた椅子を立たせ、彼女に座るように手で指した。 椅子に座る彼女を、にまにまと見ている彼の手には、豪快に破れた紙袋があった。 寝入っている彼女の頭上で、彼は茶褐色の紙袋に空気を、送り込んで、耳元で割ってやったのだ。 思った以上に、彼女が『良い反応』をするもんだから、思わず笑ってしまった。
|