やさしさにふれて


 あれから、毎日はあっという間に過ぎた。一人で立っていられるようになるまでに二日、支えなしで歩けるようになるまでに一週間、問題なく動けるようになるまでに凡そ一月。毎日誰かが付き添ってくれ、ろくに動けなかった私を介助し励ましてくれた。おかげで今では以前とほぼ変わりなく走ることも出来るし、勿論魔法も使える。幾ら感謝しても足りないくらいであるけれども、彼らは気にすることはないと笑ってただ良かったと呟くのだ。
 今、私は、確かに幸せ者であるに違いなかった。

***

 歩いたり走ったり出来るようになっても、まだすっかり依然の通りになったとは言い難い。落ちてしまった体力や腕力はこれからまた時間をかけて取り戻していくほかないのである。刃を仕込んである私の杖は、魔法で加工してあるとはいえ、ありふれた杖に比べれば多少重い。それを振り抜く程度の力は、なるべく早いうちに取り戻さねばならなかった。有り難いことに、時間があるときにはマスルールやシャルルカンが鍛錬に付き合ってくれる。しかし今日は二人とも外勤で、私は一人赤蟹塔で鍛錬していた。といっても、鍛錬場にはちらほらと武官らしき者達がいる。殆どが男性であり、女性は私一人だ。初めの頃は言うまでもなく私は浮いていて、不躾な視線が投げ掛けられたものであるけれども、流石にこの頃は少なくなった。あまりにも軟弱な私の様子に、興味をなくしたのかもしれない。
 一休みしようと端に寄り、壁にもたれ掛かる。ひやりとした石壁の冷たさが布越しに伝わるのを感じながら、ゆっくりと息を吐き出した。空は青く、ぬるい風はゆるく吹いていく。まるで鍛錬に励む武官達と私と外界、それぞれに別々の時間が流れているかのようだ。そうして宙を眺めてぼんやりとしていた私は、後方から聞こえた控えめな声が自分に向けられているものだとすぐには気づかなかった。

「あの……聞こえていらっしゃいますか」
「……あっ、私、ですか」
「はい。貴女です、エルハーム様」

 振り返るとそこにいたのは、真面目そうな顔つきの若者だった。年の頃はシャルルカンと同じくらいだろうか。出で立ちを見るに、武官のようである。彼は私の顔を見て愁眉を開いた。

「ジャーファル様がお呼びです」
「ジャーファルさんが?」
「今すぐお連れするように言いつかっております。ご案内致します」
「……よろしくお願いします」

 丁重な扱いをされるのは相変わらず苦手で、どうにも慣れない。しかし、武官にしろ文官にしろ殆どの官吏は私に恭しい態度をとるし、魔導士もまた同じである。どうやら私が王や八人将と懇意であるという話が王宮中に広まっているようで、視線のみならいざ知らず、あからさまな粗相をすれば忽ちお咎めがあると思われているらしいのだ。
 いつかその態度に慣れきってしまう日がくるとしたらそれは、私が望まぬ何者かになってしまったときだろうと思う。私は敬われたいのではない。懐かしい故郷の人々のように、誰とでもなんの垣根もなく気さくに笑い合える人間になりたいのだ。それには地位も名声も要らない。丁寧な態度はまるで不可視の線を引かれているようで、そこに果てしない距離を感じて言いようのない寂寥感に襲われた。
 会話もなく、無言で武官の彼の後ろをついて行く。どこへ向かっているのだか知らないけれども、王宮から出るわけではないようだった。廊下に響く二人分の足音をどれだけ聞いていただろう。着いたのは、あの医務室だった。促されるまま中へ入ると、思いがけずたくさんの人がいて一斉にこちらを振り返った。

「えっ…」
「ああ、来ましたね。ありがとうございました、ルト」
「では私はこれで…」
「いえ、貴方もいて下さい」
「あの……ジャーファルさん、一体……?」
「実は、」

 ジャーファルさんは確かに口を開こうとした。しかし、人々がわっと詰め寄って来るほうがずっと早い。私はすっかり面食らって、間抜けに突っ立っていた。一人が私の手を取って強く握る。別の誰かが腕を掴む。さらにまた別の誰かが私の前に跪き、それに倣うように数人が膝を折った。

「本当にありがとうございました…!」
「貴女が体を張って助けて下さったから、私達はこうしておられます」
「ご無事で良うございました」
「マスルール様に運ばれていってから、とても心配で……」

 口々に飛び出す言葉を全て聞き取ることはできなかったけれども、それでも彼ら彼女らが何者かを推し量るには十分だった。

「あの日貴女に助けられた人々です。以前から面会の希望が出ていたのですが、貴女も彼らも体調が万全になってからのほうが良いだろうと思いずっと先延ばしにしていて」

 先程出鼻を挫かれたジャーファルさんが苦笑混じりに言う。恐らくジャーファルさんも彼らに詰め寄られ、半ば勢いに押される形で、こんなにも急な面会を行う運びになってしまったのだろう。全く予期していなかった事であるから、私はろくな格好をしていない。

「皆さん、もうお体は大丈夫なのですか?」
「お陰様でこの通り、ピンピンしております!」
「それなら良かったです」
「どうやってこのご恩をお返しすれば良いのやら…」
「お返しだなんて……! どうか皆さんそう畏まらずに……立って、顔を上げて下さい」
「いえ、そういうわけには」
「そんなに畏まられると、却って恐縮です。私はただ偶然行き合っただけなんです。見返りが欲しかったのでもありませんし、どうか気楽にして下さいませんか」

 膝を折った人々は私を見上げて、困ったように眉を下げた。私も僅かに眉を下げて彼らを見つめ返す。ややあって遠慮がちに立ち上がった人々に礼を言うと、不意にどこからか鼻を啜る音がした。見たところ、目の前にいる彼らではない。まさかジャーファルさんでないだろうし、となれば考えられるのはただ一人であるけれども、一体どうして彼が泣くというのだ。疑問に思いつつ部屋の隅に控えている若い武官を見やると案の定とでもいうべきか彼は涙ぐんでいて、私と目が合うと恥ずかしそうに肩をすぼめた。

「おっ、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません……!」
「え、いえ、見苦しいとは思いませんが……どうなさったのですか?」
「いえ、その、ひどく感動してしまいまして」
「……か、感動?」

 予想だにしない返答に困惑する私をよそに、私の腕を掴んでいた人があっと声をあげた。「貴方も、あの時の!」それをきっかけにして、人々が打ち寄せる波の如く彼に詰めかける。礼を言う者、肩を叩いて励ます者、実に様々である。呆気にとられていれば、ずっと黙っていたジャーファルさんが笑った。

141219 
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