うみのこころ


sideシャルルカン


 エルハームさんが目を覚ましたそのとき、俺は海の上にいた。というのも、いつかのようにスパルトスとの外勤が割り当てられていたのだ。恙なく仕事を終えて港に戻ってきた時点では当然エルハームさんが目を覚ましたことなど露ほども知らず、むしろそろそろ彼女の訃報を受け取る覚悟を決めるべきなのではないかと本気で考えていた程である。そんな折りに珍しくピスティの出迎えがあるものだからまさかと冷や汗をかいたのだが、予想に反する朗報に思わず飛び上がった。
 ピスティの話を聞くのもそこそこに、一目散に彼女のところへ直走る。部屋に飛び込めば、彼女はベッドの上で上半身を起こしていた。騒々しい足音が聞こえていたのか、ノックもなしに扉を開けた俺に驚くこともなく、控えめな笑みで俺を出迎えた。

「エルハームさん、……良かった」
「ありがとう、シャルルカン。とりあえず座って、落ち着いて」

 エルハームさんに言われるまま、彼女が指し示したベッド脇の椅子に腰掛ける。エルハームさんの顔色はまだまだ良いとはいえない青白さで、眠っていたのはたった数日のはずなのに、随分と痩せたような気がした。冷静になって考えてみれば、いくら目を覚まして喜ばしいとはいえ、すぐに訪問するのは考え物だったのではないかと不安になった。なんといっても病み上がりなのだ。こうして椅子が用意されているところを見れば、きっと自分以外にも訪問者がいたのだろうし、そう見せないだけで疲れているかもしれない。それでもエルハームさんは朗らかな声音で言った。

「お茶も出せずにごめんね。まだ一人では立てなくて」
「いや……」

 気を使われては却って申し訳ないのだが、上手いこと言えずに口ごもった。彼女が目を覚ましたらすぐに謝ろうとずっと決めていたというのに、これではあまりにも情けない。

「エルハームさん、……その……あの日のことなんすけど、」
「謝罪なら聞かないからね」
「…え」
「シャルルカンが責任を感じるようなことは何もないよ。あれは私の独断専行が招いたことだから、謝るのはむしろ私のほうだ」

 エルハームさんはきっぱりと言い切り頭を下げた。「勝手なことをしてごめん。迷惑をかけてしまったね」……いやいや、待て。俺が頭を下げられるのは間違っている。思ったことが顔に出たのか、顔を上げたエルハームさんは俺を見るなり苦笑した。

「不服そうな顔だね。でもどうか、何も言わないでほしいな」
「……なんで」
「あのまま私が死んでいたら、後味悪くて仕方なかったでしょう。それに、シャルルカンに非がなくても、組になって行動していた以上必ず責任を問われることになったろうしね」
「……それが迷惑だって?」
「うん」

 あまりにもあっさりと頷かれ、腹立たしいような寂しいような妙な気分になった。彼女に他意はない。悪意もない。事実、間違ってもいないのだろう。俺には声を荒げる理由を見つけることが出来ず、だからこそ努めて平静を装って口を開いた。

「確かに、そういう言い方もあるとは思う。けど、迷惑っていうのは……それはなんか、違うだろ」
「…………違う?」
「ああ、違う。エルハームさんは、みんなに迷惑をかけたって思ってんだろ? でもたぶん迷惑かけられたなんて思ってる奴はほとんどいねえよ。迷惑かけてごめんなんて言うくらいなら、心配かけてごめん、だ」

 王もピスティも魔法オタクもあのマスルールさえも、俺の思い付く限りでは誰もがエルハームさんを心配していて、この三日間暗い顔をしていた。曖昧な言い方をせずに断言してやれれば良かったが、そう出来なかったのは、ジャーファルさんのことがあるからだ。ジャーファルさんの考えていることは、俺にはよくわからない。あの人が頻繁にエルハームさんの様子を見に行っていたのは確かだが、そこに心配する気持ちがあったのかどうかまでは、俺には計り知れないことだった。
 エルハームさんは暫く虚を衝かれたような顔をしていた。かと思えば目を閉じて、なにやら唸っている。やがて彼女なりに腑に落ちたのか、目を開いて小さく笑った。

「そうか……そうなのかな。心配かけてごめん。……心配してくれて、ありがとう」
「…おう」

 言い出したのは自分だというのに、改めて言われると照れ臭い。エルハームさんが自然な笑顔を見せていることがそれを倍増させている気がする。いつも彼女が纏っていた仄暗い空気は、今はもう殆どなかった。何がきっかけで──あるいは誰のお陰でそうなったのかは分からないが、良いことには違いない。きっと王様も喜んでいることだろう。

「……あれ、またお客様かな」
「え?」

 突然エルハームさんがそんなことを呟いた。こんな時間に誰だ。自分のことを棚に上げて考えながら扉を見やれば、ややあってからノックの音がした。マスルール程ではないだろうが、この人は随分耳が良い。「どうぞ」とエルハームさんが少し大きな声で返事をすると、豪快に扉が開いて入ってきたのはなんとヒナホホさんだ。「よう、エル!」思わずぽかんと間抜け面をさらしてしまった。
 何せヒナホホさんとエルハームさんに面識があるとは聞いていない。勿論お互いに相手のことを知ってはいるだろうが、顔を合わせるのはひょっとして初めてではないか。エルハームさんを振り返ると、やはり呆気にとられた表情でヒナホホさんを見つめていた。

「今ならシャルルカンもいるはずだから行ってみたらどうかってピスティに勧められてな。体調はどうだ?」
「……あ、は…はい、良好です。あの……ヒナホホ様、ですよね?」
「ん、ああそうか、会うのは初めてだったな。話は毎日聞いてるし、俺がエルハームを知ったのがずっと前なもんだから、そんな気がしなかった」

 初耳だ。確かにヒナホホさんは最古参だが、同じくらい古参のジャーファルさんとドラコーン将軍はそんな話はしていなかった。俺は開いた口が塞がらないし、エルハームさんも困惑を隠しきれていない。ヒナホホさんはそれを見て可笑しそうに目を細めた。

「俺が王に会ったのはまだ王が十四────旅に出て間もない頃なんだけどよ。その頃は時々言ってたんだ。『エルにもこの景色を見せてやりたかったな』とかってな。終いには寝言でも呼ぶもんだから訊いてみりゃ、……なんて言ったと思う?」
「え……。妹…とか」
「まあ、そうとも言ってたが、こうも言った。『故郷に残してきた、何より大事な女の子なんだ』ってな」

 こっちが本心だったんだろうな、とヒナホホさんが呵々と笑う一方で、エルハームさんは微妙な表情で閉口した。俺はといえば、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気まずさに加えて、何やら恥ずかしさにも襲われていた。例えるなら、知人の逢瀬を思いがけず垣間見てしまったときに似ている。
 二人揃って微妙な反応になってしまったが、ヒナホホさんはさして気にした様子もない。その大きな体を揺らして笑うだけだ。

「まあ、そういうわけだ。元気になってくれて良かったよ」

 そのままわしわしとエルハームさんの頭を撫でるものだから、エルハームさんが目を白黒させた。短い付き合いの中で、エルハームさんがこういう触れ合いを得意としないことはなんとなく分かっている。
 ……助け船を出すべきか。
 様子を見ていれば、彼女は戸惑いながらも振り払う素振りは見せず、ただ気恥ずかしそうにじっとしている。そのうちヒナホホさんが気がついて「おっとすまん、ついやっちまった」と手を止めた。

「名前だけとはいえ昔から知ってるせいか、どうも俺まで昔馴染みに再会したみたいな気になるんだよな。嫌なことはちゃんと嫌って言うんだぞ」
「は、はい。……でも、あの、……嫌では、ありませんでした。私は親を知りませんが、父親というのはこんな感じなのかなって」

 今度はヒナホホさんが呆気にとられる番だった。しかしそれは一瞬で、再び豪快に笑い始める。そして、びくりと肩を震わせたエルハームさんの頭を先程より幾分穏やかな手つきで撫でた。

「よしよし、じゃあうちの娘になるか? ちょうどガキどもも妹がほしいって言っててな」
「……ええと、私が末っ子なのですか」
「イムチャック人からすりゃあイムチャック以外の人間は幾つになってもよちよち歩きの子供みたいなもんだ」
「そうは言っても私は大人ですよ」
「でもなぁ、どう考えてもエルハームが一番小さいんだ」

 ────なんつーか、これは。
 ヒナホホさんが一方的に昔からエルハームさんを知っていても、とにかく今回が初対面のはずだ。にもかかわらずエルハームさんの雰囲気が既に柔らかくなったのは、ヒナホホさんの豪快でしかし温かい人柄の為せる技なのだろうか。
 考えてみれば、王様を除いてはきっとヒナホホさんだけなのだ。初めからエルハームさんを愛称で呼び、少しの距離さえ作らなかったのは。

150220 
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