さながら幸福に繋ぐ枷


「正直なことを言えば、ずっとシンドリアに居てほしい。だが、お前が旅をしたいと思うなら、それを止める権利は俺にはないんだよな。俺が村を出るとき、お前は全部受け入れて送り出してくれたんだから」
「それは……だって、貴方がそうするって決めたからには、何を言っても行ってしまうだろうと思って」
「……その言葉、そっくりそのまま返そう。お前もそうだろう? 一度決めたら何を言っても聞かない」

 そう言ってシンドバッドが苦笑する。いつかも私が彼を困らせて、こんな表情をさせたことがあるのを思い出した。目の前にある苦笑は、まさしく記憶の中にあるそれと似ている。同一人物なのだから当たり前と言えばそれまでなのだけれども、しかし、そこにあの頃の幼さは殆ど残っていなかった。もう彼は──勿論私も──あの頃のような子供ではないのだ。僅かに残された面影は、時間の流れをより際立たせて胸の奥を締め付けるだけである。
 返すべき言葉を探していれば、シンドバッドが頬を撫でた。

「エルがしたいようにすればいい」
「……いいの?」
「ああ」
「ほんとうに?」
「勿論」
「ただの、我が儘なのに……」
「我が儘の一つや二つ聞いてやれないような小さな男じゃないぞ、俺は」

 義兄であり、友であり、王だから。
 彼がひどく懐かしい顔で笑うものだから、言いたいことも言わなければならないこともたくさんあったのに、言葉がすっかり迷子になってしまった。きっと今の私の顔はぐちゃぐちゃだろう。笑っているのか泣いているのか、自分でさえ判然としない。

「ありがとう、シン」

 ありきたりな言葉に胸中でごった返している感情を有りっ丈込めることしか出来ず、それでも精一杯声を絞り出した。不調の喉で話し続けたせいか少し掠れていたけれども、シンドバッドにはしっかりと届いたようだった。黄金色の目が一瞬丸く見開かれる。かと思えば、破顔して私を正面から抱き上げた。
 突然のことに驚いて、今度は私が目を見開く。不安定さに思わずシンドバッドの肩に手を置けば、当の本人は悪戯が成功した子供のような顔をして、堪えきれないというように声をあげて笑い出した。

「よーし! 今日は祝い酒だ!」
「えっ?」
「エルが無事に目を覚まして、生きると言ってくれたんだから盛大に祝うぞ!」
「えっ、ちょっと」

 私を抱き上げたまま、シンドバッドは大騒ぎだ。勿論彼はしっかりと私を抱えているけれども、そのまま忙しなく歩き回られては上半身は不安定になるし、今の私はそれを肩に置いた手で支えられる程の腕力さえない。ぐらぐらと揺れる私を見て不安そうに眉を寄せるヤムライハがと目が合い、思わず苦笑した。「そういえば歓迎の宴もまだだったな! ジャーファル、至急準備を…」「駄目です」即答したジャーファル様も、眉間にしわを寄せている。

「だっ…駄目…!?」
「無理に決まってるでしょう。彼女はまだ目を覚ましたばかりなんですよ。体調も万全ではありませんし、先ずはきちんと診てもらわなければ」

 声音は、自分で歩けると私が意地を張ったときとすっかり同じそれである。
 ずっと黙っていたヤムライハやピスティも、同調して声をあげた。

「王よ、ジャーファルさんの言うとおりです! 病み上がりに無理させて、エルさんが倒れたらどうするんですか」
「主役が倒れちゃったら元も子もないですよ。せめてエルさんが元気になって、ほっぺの腫れもひいてからじゃないと!」

 頬のことを言われれば、シンドバッドは返す言葉が見つからないらしく小さく唸って押し黙った。それを見てしてやったり顔のピスティは確信犯と見て間違いないだろう。やはりなかなかに侮れぬ少女である。彼女が「そうですよね、ジャーファルさん!」とまたジャーファル様に話を振ると、ジャーファル様はぎこちなく頷いた。

「エルハームさんのための宴なら、エルハームさんが回復してからのほうが良いでしょうね。快気祝いも兼ねて盛大にやるというなら……それなら…まあ、私も賛成です」

 シンドバッドは目を丸くした。一度私を見て、それからもう一度ジャーファル様に視線を戻す。かと思えば、急にくつくつと笑った。

「お前……いや、そうか……、そうか。うん、良かった」
「はい? なんです、私が頑として宴を却下すると思っていたんですか?」
「いやいや、ようやく二人が打ち解けたんだなと思っただけだ」
「は……」
「エルを頼むよ。……勿論、マスルールもヤムライハも、ピスティも」

 一瞬、彼の声に真剣味が増したような気がした。空気が僅かに張りつめて、肌に突き刺さる。彼はまだどこかで私の心が本当に変わったのかどうかを懸念しているのだ。あるいは、本当に変わったのだとしても、また幾ばくと経たぬうちに心変わりをするのではないかと考えている。
 果たして友は私の枷足り得るのだろうか。恐らく実際にその時が来なければ答えは分からない。しかし、枷にしたくないという漠然な思いはある。結局のところは私がどう考えるか、それ次第なのだろう。

「あまり重く受け止めるなよ。兄として妹が心配なだけなんだ」

 張りつめた空気を解きほぐすようにシンドバッドが表情を和らげても、一度肌で感じた緊張感はなかなか消えてはくれなかった。思えば、言葉は最も複雑な枷であり鎖である。

「シン、私はもう貴方の義妹ではないよ。血の繋がりも無しに妹を名乗れる程の時間を今の私達は共有していないし、その肩書きは…重すぎるから」
「……そうか。それでも、エルは大勢のシンドリア国民と同じように俺の家族だし、友なんだよ。つまりシンドリアの家族で友だ」
「いつか私がシンドリアを出て行ったとしても?」
「心が俺の傍にあるならそれで良いさ」
「……気障な台詞を吐くのは恋人の前だけにしなよね」

 私は私の生を誰にも囚われることのないよう、しっかりと抱えていなければならない。一度は全てを失いかけた私は、再び失うことに関して臆病になっているのだろう。私の元を離れていって私の意志が及ばなくなるあの恐怖は、今もまだはっきりと覚えている。だから、たとえシンドバッドであろうと、決して委ねるわけにはいかないのだ。

141130
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