足枷に椿


 頬を叩かれることを覚悟したけれども、痛みはやってこなかった。代わりに頬に伝わるのは、じんわりと柔らかい温もりである。シンドバッドの大きな手が、まだ赤いままだろう私の頬を包んでいるのだ。「すまなかった」彼の表情は複雑で、泣くのを堪えているようにも見える。一瞬その瞳に光るものが見えたような気さえして、心臓が騒いだ。

「エル」

 低い声が微かに震えている。心臓が、痛い。
 その時不意に、ジャーファル様の腕が背から離れた。突然のことに声を驚く間も無い。支えを無くした体は途端に不安定になり、役立たずの膝がへにゃりと折れるのと同時につんのめる。気がつけば、殆ど倒れ込むようにしてシンドバッドに抱き締められていた。肌に触れる装飾品がごつごつと痛いけれども、それよりも、彼の腕に籠められた力の強さのほうがずっと痛い。痛みと匂いと温かさと、色々なものが綯い交ぜになって、涙腺を刺激する。既に何度も泣いて腫れぼったくなった目が、再びじわりと水っぽくなった。

「俺は、あの日も今も同じことを思っている」
「え…」

 あの日というのは、彼が村を出た日のことを指しているのだろう。その日もこうして抱き締められたのを覚えている。そして、その時彼が呟いた言葉も。今でもはっきりと思い出せた。

「俺があの日決めたことは、間違っていたわけではなかったんだろう。だが、最善でもなかった。そのせいでお前に辛い思いをさせた……謝るのは俺のほうなんだ」
「そんな、」
「本当は一緒に行きたかった。結局踏ん切りがつかずに村に残して来てしまったお前のことが、ずっと気にかかって仕方なかったよ。再会して話を聞いて、ますます悔やんだ。……勝手にしろなんて、本当は微塵も思っちゃいない。俺は、ここに──俺の居るところに、エルが居てほしい」

 真っ直ぐに視線が合わせられる。飲み込まれそうな瞳だった。「……良いの? 私……」不意に、ここに来て間もない頃の彼の言葉が脳裏に蘇る。『手放せるわけないんだよ』──それに重なるようにして、目の前のシンドバッドが呟いた。

「どこにも行くな」

 息が詰まった。後ろで誰かもはっと息を呑んだ。
 今、たった一瞬で胸に広がったこの感情がなんなのか、私には分からなかった。正体の分からない感情に満たされた胸が苦しくて、言葉が出てこない。強い光を宿した双眸に吸い込まれてしまいそうな気がして目を逸らせば、また抜け出せない程きつく抱き寄せられて何も見えなくなった。
 これは、この感情は、なんだろう。嬉しいのに。幸福なことなのに。その幸福にはぼんやりと靄がかかっている。居場所を与えられた喜びに震えていながら、同時にどこか漠然とした恐怖にも似た何かが片隅にいて、ひっそりと震えているのだ。
 しかし、私には言わなければならないことがある。彼の言葉への返答もそうであるし、何より、ここに来るまでに考えてきたことを私はまだ伝えきっていない。正体不明の感情に名を付けるのは後回しにして、喉を震わせる。
 
「私、は」

 シンドバッドの胸に顔を押しつけられているので、どうにか絞り出した情けない声はくぐもって、ますます聞き聞き苦しい声になった。気づいたシンドバッドが腕の力を緩ませてくれたけれども、私は顔を上げられず、しかし、俯いたまま言うわけにもいかない。深呼吸をして顔を上げれば、シンドバッドは変わらず私を真っ直ぐに見ていた。思わずその視線に気圧されそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死で堪えた。
 俄かにジャーファル様の手が背に添えられていないことが無性に不安になるのは、私がまた一つ勝手を言おうとしているからだろう。それをジャーファル様が支持してくれるというわけでもないのに、不思議と彼ならば後押してくれそうな気がするのだ。身勝手は悪ではないと言って。勿論、本当に彼がそう言ってくれる保証などなく、全ては私の都合の良い想像に過ぎない。つまるところ今この時、弱腰の自分を叱咤し激励出来るのは、自分以外にいなかった。

「私は、優しい友がいる貴方の国が好きです。だから、王たる貴方がそう言ってくれるなら、いつまでだってここに居たいと思います。…ですが、」

 ──エルハームよ、甘えるな。逃げるな。
 決めたのだから、言わなくてはならない。無意識に拳を作って顔を上げ続けた。

「私は、貴方に何も差し出せません。貴方は私に生きたいと思わせてくれ、生きるという道を示してくれました。その恩に報いるならば、生涯を捧げたって足りないくらいでしょう。それでも……私には、そうするつもりはありません。手足も目も耳も意志も、私の総ては私のもので、ほかの誰でもない私自身の為のものだから……もう二度と、手放したくないのです」

 ここへ死にに来た私は、少なくともその時既に自由であった。パルテビアの為の手足、パルテビアの為の力。そう言われ続けていた 長いことパルテビアのものだった私の身体は、正真正銘私自身のものになっていたのである。今更あの頃には戻れない。死に瀕して失いかけたからこそ、失う怖さも知っている。
 シンドバッドは何も言わなかった。瞳が揺れる。ひょっとするとそれは私の瞳の揺らぎだったのかもしれないけれども、定かではない。
 私達二人を王と平民と括って考えるなら私の言い分は度が過ぎた不敬である。しかし、家族あるいは友として考えるならばその限りではないだろう。言い換えれば、私はシンドバッドと対等な立場を要求したようなものだ。自分の言っていることの意味を噛みしめながら、ゆっくり、しかしはっきりと言葉を繋いだ。

「誰にもどこにも従属せず自分のしたいようにする。そんな勝手が許されるなら、私が今いたいのはこの国です。しかし、それはならぬと言うのなら、」
「……自由を奪われる前に国を出るというんだな。お前が自由である限り、その自由においてどこへでも行けるし、シンドリアにも留まれると」
「はい」
「なあ、エル。俺は元々、お前から何かを取り上げるつもりはないよ」

 そう言ったシンドバッドの口元が緩く弧を作る。私の髪を梳く手つきは優しく、拍子抜けしてしまう程穏やかだった。

「お前の自由な意志で、ここにいたいと思ってくれたなら、それで十分だ。……ただ、一つだけ条件がある」
「…条件」
「まあ、条件というほどでもないんだがな……、他人行儀な態度はやめてほしいんだ。昔みたいに──いや、昔以上に、対等でいてほしい」
「それは……」
「家族として、友として、俺と接してくれ。そうしてくれた方が俺も嬉しいし、お前の願いも叶えられる」

 対等であればこそ、私は自由でいられる。彼の言っているのは、恐らくはそういうことだろう。しかし、先程彼は、どこにも行くなと言ったのだ。その二つは相反する。
 私の困惑が伝わったのか、シンドバッドは眉を下げて笑った。

141125
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