君はもしかしてやさしい


 シンドバッドは暫く私を抱き上げて意気揚々としていたけれども、見かねたジャーファル様に窘められ渋々といった様子で私を床に降ろした。とはいえ、シンドバッドの腕はしっかりと私を支えてくれている。だからこそ、私はなんとか立っていられた。
──この脚は以前のように私を支え、歩き、走ることが出来るようになるのだろうか。
 ふと嫌な想像をしてしまって、胸がざわついた。もしもずっとこのままだとしたら。裸足から伝わる床の冷たさがそのままぞわぞわと這い上がる。心臓までもを冷やされているような心地がした。……あまり、考えたくないことである。おそらく直ぐにそれを考えねばならない瞬間はやってくるのだから、今は考えるのはやめておこう。そうやって自分に目隠しをして、粟立つ腕をさすった。
 ジャーファル様は暫し私を観察していたようだったけれども、目が合うと数秒静止して、徐に口を開いた。

「脚は相変わらずですか」
「そう…ですね、気を抜くと膝をついてしまいそうです」
「顔色もあまり良くありませんし、湯浴みや食事の前にきちんと診てもらわなければいけませんね」
「それなら俺が連れて行こうか」

 すかさずのシンドバッドの申し出に、ジャーファル様は「いけません」と即答した。

「貴方はどうぞご自分の仕事をなさって下さい。いざ宴という時に仕事が溜まっていたのでは話になりませんよ」
「それもそうだが……」
「ではマスルール、引き続きシンの監視をお願いしますね。彼女のことが一段落したら、報告も兼ねて見に来ますから。……シン、良いですね? ちゃんと仕事していて下さいよ」

 この件(くだり)だけ聞いていたのでは、どちらが上の立場なのだか分からない。まるで母親染みた言いようにシンドバッドは落ち込みはすれど憤慨する気配はなく、実質的な権力はジャーファル様にあるのではないかと思ってしまっても無理はないことだった。勿論、そんなことは流石に無いのだろうけれども、このような王と家臣の有り様は他国では有り得ないだろう。少なくともパルテビアで目にしたことは一度だってなかったし、秘密裏に忍び込んだ先でも見たことはなかった。
 物珍しいと言うには少しばかり見慣れ始めてしまっている二人のやりとりをぼんやりと眺めていれば、ジャーファル様は近寄ってきて再びあっさりと私を横抱きにした。心なしか一度目よりも手際が良い。シンドバッドは腑に落ちないと言いたげにこちらを見ていた。先程まで私を支えていた腕は、そのまま宙をさ迷っている。

「なあジャーファル、やっぱり俺が…」
「駄目です」

 言い終わるのも待たずに答えるジャーファル様は、くるりと彼に背を向けた。もうこの話は終わりだという意思表示なのだろう。

「あとは頼みますよ、マスルール。ピスティとヤムライハは、申し訳ないですがエルハームさんの部屋へ行って、彼女の靴と着替えを持ってきてもらえますか」

 その言葉でようやく私は、自分が裸足である以前に寝間着であることに気がついた。仮にも王との謁見の場に、寝間着だなんて。本来なら失礼極まりないことだというのに、ここに来るまでの私の胸の内は他の思考に占拠されていてそれどころではなく、思っていた以上に余裕が無かったらしい。ヤムライハが潤んだ目を柔らかに細めて返事をするのを聞きながら今更のように自覚し、恥ずかしくなった。
 その間にも話はとんとんと進んでいて、どうやらピスティとヤムライハが私の背中を流してくれることに決まったらしい。
 ……いやいやいや。

「待ってください、それくらい一人でも…」
「駄目です。一人で立てもしない人が何言ってるんですか」
「ですが」
「湯に浸かったまま倒れられても困るんですよ」

 返す言葉を探しているうちにジャーファル様はシンドバッドに「それでは失礼します」と一礼し、部屋を後にした。続いて出てきたヤムライハとピスティも、同じく一礼した後に私達と反対の方向へと歩いていった。
 来たときはピスティとジャーファル様が会話をしていたからそれなりの騒がしさがあったけれども、彼女がいない今は打って変わって静かだ。つまるところ私には先の発言に返す言葉などあるはずもなく、口を閉ざすほかなかった。彼が一歩踏み出す度に揺れるクーフィーヤを睨んでみたところで、会話など生まれやしない。気まずい沈黙のまま着いた部屋は、うっすらと薬臭かった。おそらく医務室のようなところなのだろう。部屋の奥には衝立があり、その手前には幾つかのベッドが整然と並んでいた。
 ジャーファル様はその中の一つに私を下ろし、そのまましゃがみこんで私の足首に触れた。

「感覚はあるんですか?」
「ありますよ。……冷たい手ですね」
「そう言う貴女の足も冷たいですよ」
「そうですか」
「ええ。…………まさか、貴女があんなことを言うとは思いませんでした」
「もしかして、怒っていらっしゃいます?」
「いいえ。怒ってはいませんが、呆れたような感心したような……。なんとも言い難いです」

 溜息なのかそうでないのか、小さくを息を吐き出す。言葉の通り表情までもなんとも言えないようなもので、私も返答し難く、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。ジャーファル様のほうも特に返答を期待していたわけではないらしく、手を放すと少し待つように言い残して衝立の向こうへ消えていった。どうやら奥には別の部屋があるようだ。
 一人取り残された私は、投げ出した脚をぶらりと揺らしてみる。気怠いけれども動きはする。ぶらり、ぶらり。こんな風に脚を揺らすのは幼い頃以来のことで、我ながら年甲斐もないと思い動かすのをやめた。それにしても血色の悪い脚である。見るからに温かみの感じられない色で、手を伸ばしてみると思っていた以上に冷たい。ゆっくりとさすっていれば、ジャーファル様が男を一人連れて戻ってきた。
 年の頃は壮年を少し過ぎたあたりだろうか。目元のしわが印象的な、人の良さそうな男だ。黒い衣服を身に纏い杖を持っているところを見ると、彼は魔導士なのだろう。私を見るなり目をこれでもかと見開いたことも踏まえれば、彼は毒を飲んで瀕死だった私の治癒に当たった魔導士なのだと察しがついた。

141206 
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