虚ろな正義


side ジャーファル


 ルト達が部屋を出て行っても、王とマスルールはその場を動かなかった。かく言う私も同様ではあるが、恐らくその理由は大きく異なっているだろう。彼らは彼女を心配しているから残るのだ。
 魔導士達の治癒が終わり解毒も済んだ今、ただ見守る他に出来ることなどなかった。あとは治癒が間に合ったかどうか、そして、彼女の体が持ちこたえられるかどうかにかかっている。今の様子を見る限りでは、目を覚ます気配はない。顔色は青ざめたままで、瞼は固く閉じられている。それでも消え入りそうだった呼吸が安定しただけ、良しとすべきなのだろう。沈黙に支配されたこの部屋では、彼女の呼吸はよく聞こえた。
 王は彼女の傍らに歩み寄ると、その頬に手を伸ばした。そして、指の腹で確かめるようにそっと触れる。双眸は彼女の顔を見つめているようでいて、ここではないどこか遠くを見ているかのようにも思われた。王の胸の内は私などが推し量れるものではないし、そんなことをしようとするのは傲慢だ。
視線を外せば、ちょうどよく扉がノックされた。どうぞと答えると、入ってきたのはひどく慌てたヤムライハだった。ヤムライハは部屋に入るなり悲痛な声をあげて、ベッドに横たわる彼女の元へ駆け寄った。ヤムライハには彼女のことを直接連絡してはいないから、きっと誰かに聞いたのだろう。その誰かは存外すぐ分かった。ヤムライハの後にすぐシャルルカンが入ってきたのである。シャルルカンもちらりと彼女を見やると、誰にともなく問いかけた。

「エルハームさんは…大丈夫なんですか」
「見ての通り、今は落ち着いて眠っているよ。魔導士達が尽力してくれたから、既に毒は消えているはずだ」

 答えたのは王だった。視線はまだ彼女に注がれたままだ。

「いつ…目を覚ますんですか」

 震える声でヤムライハが訊く。マスルールが何も言わないのは勿論、王さえも何も言わないので、代わりに私が答えた。

「それは誰にもわかりません」

 目を覚ますのかさえわかりません、とは流石に言えなかった。自分の声が思っていたよりもずっと非情に響いたからだ。すっかり忘れかけていた自分の声の冷たさに驚いて、しかし、無理もないと思い直す。この部屋で、自分だけが彼女の身を心配していないのだ。死にたいと言っていた怪しい人物がここで命を落としたところで、他人である自分があれこれ言う権利などない。それは彼女にとって本望かもしれないのに、私に口出しされては彼女も複雑だろう。
 ──本当に、そうだろうか。あれは彼女の本心だったのだろうか。
 懐疑的な自分が顔を出すが、私はその答えを持ち合わせてはいないのでどうしようもなかった。そもそも彼女の本心が分かるなら、これまでの苦労なぞもなかったに違いない。考えるだけ不毛なことで悶々としているよりも、今は訊かねばならないことがあった。

「シャルルカン。何があったか私達は今ひとつ把握していません……説明してもらえますか」
「……奴隷狩りを捕まえたってのはルトから聞いたんすよね?」
「ええ」
「そいつらの殆どはまだエルハームさんの雷が効いててろくに動けねえし話も出来ねえ状態なんすけど、辛うじて口利ける奴もいて、そいつから少し聞き出せました。少し前から街の西端の一角に潜んでいたみたいです。最近の失踪事件はあいつらの仕業でした。そんで……どういうきっかけがあったかは分からないんですけど、エルハームさんは、あいつらの一人を尾行したらしくて」
「一人でですか? 貴方も一緒にいたはずでは?」
「あ、いや……俺、途中でエルハームさんを見失っちまって……スミマセン」

 そう言ってシャルルカンが頭を掻く。思わず吐きかけた溜息を飲み込んで、ヤムライハが文句を言いたそうに口を開いたのを目で制した。私も言いたいことは幾つか
あるが、ひとまず今はやめておく。「そうですか。それで?」と話の続きを促した。

「奴らは、女一人に自分達がやられるなんて考えもしなかったそうです。まあそりゃそうだろうなって感じっすね。で、折角だからエルハームさんも攫っていこうと思って、他の人に盛ったのと同じ麻痺性毒を盛った。ところがそれが効かなかったんだそうです」
「……確かに彼女なら、普通の人と同じ量では効かないでしょうね」
「でも、飲んだ瞬間はエルハームさんぶっ倒れたって」
「それはおそらくフリでしょう。彼女は毒には気づいていたはずですから、油断させるためにわざと倒れて見せたのだと思いますよ」

 わざわざ尾行までしたというのだから、始めから毒に気づいて追っていた可能性もある。自分が追った男の正体にも、きっと早い段階で気がついていたのだろう。彼女の何を知るわけでもないが、暗殺者として裏の界隈を生きてきたのであれば、そういう嗅覚は常人よりもずっとあるに違いなかった。

「倒れて見せれば、あとは奴隷狩りのほうが彼女を攫われた人々のところに連れて行ってくれますからね」
「あ、そういや確かに、倒れたエルハームさんはすぐ荷に積んだって言ってました。けど、すぐ荷からすげー音がして、駆けつけたらエルハームさんが立ってて、攫ってきた人々を隠してた樽は全部壊されてたって。そして、自分達もエルハームさんに吹っ飛ばされたそうです」
「ねえ、待ってよ。さっきから聞いてる限りエルさんの圧勝じゃない! おかしいわ、どうしてエルさんはこんなことになったのよ!?」

 叫ぶように言ったヤムライハを宥めたのは、王だった。「まあ、落ち着けヤムライハ。続きを聞こう」おそらく王も同じことを疑問に思っただろうに、流石余裕のある振りが上手い。

「シャルルカン、続きを」
「ハイ。奴らが言うには、エルハームさんから持ちかけた取引を、奴らのボスが賭けにして承諾させたとか……」
「どういうことだ」
「毒を飲んでエルハームさんが倒れなかったらエルハームさんの勝ち、攫った人々を解放する。負けたら全員奴隷として売られるっていう賭けだそうです」
「取引というのは?」
「自分は高く売れるから、自分の身と引き換えに人々を解放しろ…とかそんな内容の取引です」

 彼女が何を考えていたのさっぱりといった顔でシャルルカンは言った。どういうことだ、彼女はシンドリア国民のために犠牲になろうとしたとでもいうのか。正義であろうとしたとも、死にたいのに死ねない現状から自棄を起こしたとも考えられた。いや、あるいは、その場しのぎの口からでまかせだったのかもしれないが、彼女に直接尋ねる他に答えを知る術はないだろう。
 シャルルカンは顔を僅かにしかめたまま、話を続けた。

「エルハームさんは二種類の毒を飲んだそうで、最初の毒を飲んだときは平然としていて、次の毒を無理矢理飲ませられても直後は平気そうだったらしいっす。そんであっという間に反撃されて身動きが取れなくなったって……。俺はエルハームさんの雷を見て急いで向かったんすけど、着いたときには奴隷狩りは全員倒れてましたよ。エルハームさんは……辛うじて立ってる、って感じでした」
「……その毒の種類は?」
「さあ…俺が話を聞いた奴は、詳しくは知らないみたいでした。ただ、『あれだけ飲んだらもう死んでてもおかしくない、あの女は化け物か』って煩かったんで……」
「なるほど。とすると……致死毒の類い…」

 ちらと横たわる彼女を見る。おそらくこの部屋の全員がそうしていた。彼女は相変わらず青ざめた顔色をしているが、胸はゆっくりと上下している。今この瞬間、彼女はまだ生きている。誰かが鼻をすする音がした。

140922
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