からっぽの絶望


 真っ暗だった。何も映さぬ漆黒の世界。どちらが上なのか下なのか、私は今立っているのか座っているのか、何一つ分からない。ひょっとすれば真っ逆様に落ちている最中なのかもしれなかったし、あるいは地面に寝転んでいるのかもしれなかったけれども、私に分かるのは、ここには光も音も温度も存在しないということだけである。それだけが唯一はっきりしていることで、その他のことはこの黒々とした闇が飲み込んでしまっている。
例えば今の私に手足はあるのか、それさえも判然としない。感覚はまるで無かったし、見えもしないから、確かめようがない。そもそも私が存在しているのかも怪しかった。私の意識は確かにここにあるけれども、それだけでは私の体がここにあることを証明出来ない。第一、そう、私の最後の記憶が正しいのであれば、きっと私は死んだのだ。だから感覚の一切が無いのだろう。痛みも苦しみも無くなって、何もかも無くなって、意識だけがこの暗闇に取り残された。これが死んだということなのだろう。死ぬのは初めてだからすぐに気付けなかっただけで、きっと、そういうことなのだ。
 嗚呼。
 何もない私は、泣くことさえ出来なかった。悲しいと感じる。無いはずの胸が締め付けられるのを感じる。けれども、やはり私には実体が伴っていないようで、嗚咽の一つ出て来やしない。どこにもいけない感情が、胸があるはずの場所で居心地悪そうにぐるぐると渦を巻いている。
 嗚呼、シンドバッド。私は、死んだらしいよ。死にたかったはずなのに、やっと死ねたはずなのに、ちっとも心が晴れないのはどうしてなのだろう。心さえここに無いからだろうか。いや、しかし、意識がここにあるのなら心だってきっとここにあるはずなのである。でなければ、感情があるのはおかしい。悶々と考えたところで埒などあきそうにないけれども、それでも考えるしかなかった。何せ今の私にはそれしか残っていないのだから。死んで尚暗闇から逃れられないなら、もうどこにも逃げ場などない。気の遠くなるような永遠を、私は、この闇の中でさ迷うのだ。
 ねえ、シン。私、今、後悔しているよ。
 呟いてみようとしたけれども声にはならないし、口を動かす感覚も、音が喉を通る震えも感じなかった。本当に今の私には何もないらしい。こうやって何もかもを失う前に、私には伝えるべきことがたくさんあったはずなのに、私は何一つ伝えないまま、伝えるための手段を失い、伝えるはずの言葉も失くしたのだと今更のように痛感する。間違えたことはやり直せば良いし、無くしたものは探せばいい。何かもを失うということは──死ぬということは、そんなことさえも出来なくなるということだった。私はたった今それを理解した。もっと正確に言うなら、伝えるべき言葉があったことにも、こうなって初めて気がついたのである。馬鹿みたいに遅すぎる。そのくせ、死には急ぎすぎたのだ。
 死ぬことの怖さを知るのもまた遅すぎた。自分が死に臨んで初めて恐怖を感じた。今まで命を奪ってきた自分が、いざ我が身となって怖じ気づいて、生に縋りつくのはおこがましいことである。それを分かっているけれども、私はあの時まだ死にたくないと思ってしまったのだ。未練を知り、自分の愚かさと情けなさを呪った。それでもまだ、またあの人のそばにいきたいと思う。たとえ大人になって変わってしまった部分があるとしても、変わらない部分は確かにあって、そんな彼の笑顔がもう一度見たいと思う。
願わくは、シンドリアで触れた幾つもの温もりに、それをくれた全ての人に、もう一度、会いたい。もう一度。もしそのもう一度が叶えば、更にもう一度を望み、際限なくなってしまうのかもしれないけれども、これが愚かな私の本心に違いなかった。
 今更何を思おうと、全て手遅れだというのに。

「手遅れではないよ」

 ──光。白く、柔らかな光。この完全なる暗闇の中で、そこだけが眩しく光り輝いている。

「君はまだ、終わってないから」

 光が近づいてくる。少しずつ、私の側へ。そうして私は、それがひどく懐かしい声であることに気がついた。

(……ユナン?)
「そうだよ……久しぶりだね、エルハーム」
(どうして……一体何がどうなって……?)
「今の君はルフ。身体はここにはないよ」
(ここは……)
「うーん、そうだね……世界の片隅かな」

 言葉にならない声も、不思議と彼には伝わるらしかった。光の中にぼんやりと彼の輪郭を見た気がして、奇妙な感覚に囚われる。
 しかし、そんなことよりも今は彼の言葉のほうが重要だった。世界の片隅というのもよく分からないけれども、今の私はルフというのはどういうことだろうか。やはり、私は──。

(私、死んだの?)
「死んでいないよ。まだ」
(……まだ)
「あとはエルハーム次第。運命を受け入れ、乗り越えられるか…ね」
(受け入れるも何も、私は、)
「君なら大丈夫。本当はね、少し言いたいことがあったんだけれど……でも、うん、きっともう必要ない」
(どういうこと)
「さあ、どういうことだろうね?」
(はぐらかさないで)
「ふふ、ごめん。でも本当に、もう必要ないから」

 そう言って、ユナンは笑った。顔は見えていないのに──今の私に目があるかも怪しいものなのに──確かに笑みを浮かべたと思った。

「君は少し変わっているよね。多くの人は苦しい運命を恨み拒むのに、エルハームは、目の前に拓けた明るい未来を拒み、自ら負の流れを選ぼうとした」

 その言葉が、空虚な胸に突き刺さったような気がした。そうか。私のしていたことは、運命の拒絶であったのか。自分の置かれている状況を受け止めて、抗わずに生きてきたつもりだった。最期だけは自分で選ぼうとしたけれども、私はずっと、拒むことなく生きていたつもりでいたのだ。しかし、生き続けることが私の運命であったなら。私は確かにそれを拒んだ。そうして、殺してもらいたくて、この国に来て、今のこの状況がある。
やはりどこまでも私は愚かであった。

(……ユナンはなんでもお見通しなんだね)
「聴いていたんだよ。ずっと遠くから」

 ずっと遠くとは、どれくらい遠い場所だろう。この不思議な男がそう言うのなら、例えば世界の裏側だと言われても頷けるような気がした。
 白い光がゆらゆらと揺れる。まるで水面に映る月のようだ。仮に今の私に手があるとして、その光に向かって伸ばしてみたとしても、きっと触れることは出来ない。ゆらりと揺れて掻き消えてしまうのだろう。
  
「……知っていたなら助けてほしかった、って思った?」

 不意にユナンが問う。ちっとも考えていなかったことだったので、素直に首を横に振った。何故だかちゃんとそう出来たような感覚があった。
 ユナンはただ一言「そっか」とだけ呟いた。

「凄いね、エルハームは」

真意が分からずなんの反応も返せずにいれば、ユナンはまた笑う。それにあわせて、彼を包む白い光がゆらゆらと揺れた。
まるで波のように揺らめく様を見ていると、そのうち私自身が揺らぐような気がしてくる。気がつくと言葉が口をついて零れ落ちていた。

(……私は、自分が許せない。許してはいけないと思ってる。だけど、それでも──生きていて、良いのかな)
「さあ、どうだろう。それを決めるのは君じゃないし、僕でもない……もちろんシンドバッドでもない。というより、誰かが勝手に決められることじゃないよ」

 それこそが運命なのだ。分かっているのに分かりたくない。ひどく矛盾だらけである。尤も、私が矛盾だらけなのは今に始まったことではなくて、私はいつだって矛盾だらけであった。整合性があったことのほうが珍しかったかもしれない。

「もし君が罰として死を望むなら、その死を与えないことが何より君への罰になるよね」
(だけど、私、死にたくないと思ってしまった)
「うん」
(死ぬことが怖いと、思ってしまったよ)
「それなら、今この瞬間が罰かもしれない」

 私は何も言えなかった。言葉が見つからなかったからだけではなく、何かを言う間もなかったのだ。ぐんと何かに強く引っ張られるような感じがする。
 
「どうやら君はもうここにはいられないみたいだね。行かなくちゃいけない」

 どこへ。どうやって。何も言えないまま、どんどん強くなる力に引き摺られていく。相変わらずの闇の中なのに、自分が物凄い速さで移動しているのが分かる。
 最後に、またねとユナンが呟いていたような気がした。

140927
- ナノ -