ああなんてすくわれない


 暗殺者は、白昼堂々王宮に忍び込み、王の部屋への侵入にまで成功した──。
 先ほど逃げ出してきた部屋へ共に戻る道すがら、ジャーファルは言う。そこまでの侵入を許してしまったことを悔いているのだろう、表情は険しい。

「貴方が脱走した直後のことだったようです。……ですから今回の脱走は、タイミングが良かったということで多目に見ましょう」
「それは良かった! その暗殺者には感謝しなればならないな」

 シンドバッドがおどければ、たちまちジャーファルの鋭い眼光が突き刺さる。無論、シンドバッドも事の大きさはわかっていた。シンドリアの王宮だけあって、ここには多くの武官がいる。八人将だっている。警備は決して手薄ではない。にもかかわらず、奴は標的の私室にまで辿り着いてみせたのだ。単に奴に相当の実力あってこそ成し得たと業だと考えることもできるが、王宮に内通者がいる可能性も否定できない。

「侵入経路など、慎重に調べる必要があるかと」
「ああ、そこはお前に任せよう。それにしても……内部まで侵入させてしまったわりに捕縛が早いな。いつ侵入に気付いたんだ?」
「つい先程です。最初に気付いたのはマスルールでした。不審な匂いがすると言って駆けていって」
「なるほど。不審な匂いというと、毒の類いか?」
「おそらくは。……このあたりに立ち入れる者、ましてや王の私室に立ち入れる者など限られていますから、単に馴染みがない匂いという意味だったのかもしれませんが」
「なんにせよ、マスルールのお手柄だな」

 そうですね、と言いつつ、ばつが悪そうにするジャーファルをフォローする前に、もう目前に迫った王室から突風が吹き荒れた。飛び出してきた椅子が石壁にぶつかり、派手な音をたてて落ちる。ヤムライハが「大人しくしなさい!」と叫ぶ声が聞こえた。

「派手に暴れているようだな」

 シンドバッドが中に入ると、風魔法のせいだろう、先刻部屋を抜け出したときとは比べ物にならないほど散らかっているのが見て取れた。その中心に、マスルールと例の暗殺者らしき人物がいる。マスルールは吹き荒れる風にもびくともせず、暗殺者を床に押さえつけていた。
 ヤムライハは王とジャーファルの姿を認めるやいなや、駆け寄ってきて言った。

「ジャーファルさん、どうやらあいつの身体能力は本来的なもののようです。でもそれより気になることが──なぜかは分かりませんが──手加減して魔法を使っているみたいなんです」
「手加減?」
「はい。あの暗殺者……魔力の量、風魔法の熟練度共に申し分なく、やろうと思えばここにいる全員を吹き飛ばして逃げられるはずです。ですが、今のところ、意図的に家具しか吹き飛ばしていません」

 それは妙なことだった。加えて、シンドバッドはもう一つ妙だと思った。目の前の暗殺者から、殺気が一切感じられないのである。侵入段階では隠しておくとしても、ここは標的の部屋である。目の前に標的であるシンドバッドがいて、捕縛され自身の危機ときている今、殺気がない方が不自然だ。全力で振り切ろうとするのが自然だろう。暗殺の失敗を悟り、観念したというのなら説明もつこうが、抵抗の形は示している。
 この侵入者は何がしたいのだろう。シンドバッドの暗殺が目的ではないとでもいうのか。
 おそらくジャーファルも同じことを思ったに違いない。怪訝な顔をして、暗殺者を見やった。

「……マスルール、そいつの杖を奪いなさい。そうすればもう魔法は使えないはずです」

 ジャーファルの言葉に反応して暗殺者は必死に杖を守ろうともがくが、マスルールはあっさりとそれをもぎ取った。途端に不自然な突風はゆるゆると静まり、小さなそよ風となって消えた。
 杖を奪われて抵抗する気をなくしたのか、暗殺者はもうぴくりともしなかった。ジャーファルの言ったとおり黒い衣服が体を包み、顔は面に覆われていて、性別さえ判らない。背丈は大人の男にしてやや小柄だが、まだ子供の可能性もある。女ならば普通より大きいほうだろう。

「顔を拝見するとしようか」

 すると、暗殺者は再びもがきだした。マスルールに力で適うはずもないと分かっているだろうに、それでももがいている。
 なんとはなしに「よほど顔を見られたくないようだな」と呟くと、マスルールが言った。

「女だからじゃないすか」
「マスルール、そいつは女なのですか?」
「たぶんですけど。押さえ込んだとき、思ったよりだいぶ細くて折りそうになったんで」

 現状で唯一接触しているマスルールが言うからには、そうなのだろう。しかし、女であるならばなおのこと妙である。女であることを最大限に利用して暗殺を企てた者は過去にもいたし、女が大の男を暗殺しようとするなら、そのほうが こうやって忍び込むよりもよほど成功する可能性が高い。ただでさえ、シンドバットは難しい標的に違いないのだ。なぜ敢えてリスクが高いやり方を選んだのか、どうも腑に落ちない。
 近づいたシンドバットが面に手を伸ばせば、暗殺者はぐいと顔を背けた。それが無駄であることは言うまでもないが、暗殺者──女は必死に面を取らせまいとする。

「観念してくれよ」

 シンドバットの手が面に触れる。女はびくりと肩を揺らして、動きを止めた。特筆する事もないようなありふれた白い面は、よく見ればところどころに赤黒い染みができていて、誰かの血を連想させた。
 一思いにはぎ取ってやるのがせめてもの優しさだろうかと、そんなことをシンドバットは考えた。普通は暗殺者に情けなどかけるものではないのだろうが、彼女はここでは誰も殺していないし、そもそも殺す気があったのかさえ不明だ。この不思議な女暗殺者には、情けをかけてみるのも悪くはない気がする。
 ぐいと一思いにはぎ取った面の下には、白いかんばせ。彼女は泣いていた。そこに表情はない。虚ろな双眸から、ただ静かに涙が零れて頬を伝っていくだけである。視線がかち合ったその瞬間、シンドバッドは目を見開いた。それを知っている気がしたのだ。幼い頃毎日見ていたものに、あまりにもよく似ている。

「──エルハーム……?」

 その瞬間に苦しげに細められた双眸が音もなく肯定する。
 そんな。まさか。お前が。なぜ。
 言いたいことは幾つもあるのに、どれも言葉にならずに喉の奥につっかえていた。

140217
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