あいにく余裕なんてものは持ち合わせておりません


 今、シンドバッドの目の前で泣いている彼女は、間違いなくエルハームだった。エルハームにはもう何年も会っていない。記憶の中の彼女は今も当時の幼い少女のままだ。成長して大人になった彼女のこととなど何一つ知らないが、目の前の女はその面影を確かに宿している。そうでなくとも妹のように大切に思っていた少女のこと、どうして間違えようか。シンドバッドには確信があった。
 だからこそ、同時に、絶望にも似た深い悲しみを覚えた。あの気だての良い少女がなぜ。どこでもいい、どこかで慎ましくも幸せに暮らしていてくれさえすれば、それで良いと思っていた。もしいつか再会することができたなら、まずは思い切り抱き締めて、それから酒でも飲んで昔話でもしたいものだと、そう思っていたのに。まさか暗殺を生業にしているなど考えてもみなかったし、一番あって欲しくなかったことだった。

「エルハーム……、なぜ、お前がこんなことを」

 エルハームは答えない。思えば、彼女はまだ一言も口を利いていなかった。言葉が無い代わりであるかのように、涙だけがとめどなく溢れている。指でそっと拭ってやると、エルハームは顔を俯かせた。

「シン。……エルハーム、というのは」

 戸惑ったジャーファルの声がして、シンドバッドはようやく状況を思い出した。思った以上に動揺していたらしい。ふう、と息を吐いて、部下に向き直る。

「そうだな、お前たちには話したことがなかったか。俺には二つ歳の離れた、兄妹のように育った幼馴染みがいたんだよ。エルハームは、そいつの名前なんだ」
「まさかその者が…?」
「ああ。……本人が何も答えてくれないから断定は出来ないが、俺は間違いないと思う」

 エルハームはなおも俯いたままで、ぽたぽたと大理石の床に雫を落としていた。彼女が何を思って泣いているのか、シンドバッドにはわからない。

「なあ、顔を上げてくれ」

 力無く首を横に振る。それにあわせて、短めの髪がさらさらと揺れた。その髪には艶があり、どうやら身なりはそれなりに整っているようである。

「誰に差し向けられた? アル・サーメンか?」

 返事はない。

「目的は俺の暗殺か?」

 これにも返事はない。

「なあ、……なあ、エルハーム。お前が本当にエルハームなら、俺はお前を処刑したくはない。牢にも入れたくないんだ。だが、お前がこのまま何も答えてくれなければ、それなりの処置をしなければならなくなる」

 シンドバッドの切実な思いだった。たとえ何年離れていてその間にどれだけ変わっていようと、肉親の如く思った者に何の情も抱かないわけがない。出来ることなら、無罪放免としてこの国でまっとうに生かしてやりたかった。
 しかし、エルハームが何かを答える気配はなかった。仮にも暗殺者が依頼主の情報について簡単に口を割るはずないとわかってはいても、落胆する気持ちは抑えられない。

「王よ」

 ヤムライハを見れば、彼女は躊躇いがちに口にした。

「おそらく、その……エルハームさん…が、アル・サーメンである可能性は低いと思います」
「なぜわかる」
「ルフが真っ白なんです。堕転なんてかすかな兆候さえ感じられないほど」

 一瞬、シンドバッドの表情が安堵に染まる。それを見てジャーファルが口を挟んだ。

「しかしヤムライハ、それだけではアル・サーメンとの関係は否定しきれませんよ」
「でもジャーファルさん! 彼女のルフはとても綺麗です。そして力強い。アル・サーメンと関わりがある者のルフとは思えません」
「………二人の言い分はわかった。マスルール、お前はどう思う」

 マスルールは突然意見を求められたことに戸惑いつつも、やや考える素振りを見せた。マスルールには、ヤムライハが言うルフがどうこうというのは分からない。ジャーファルが考えるような難しいことも分からない。だから、マスルールなりに感じたことを率直に伝えた。

「どう思うっていうか……とりあえずアル・サーメンとは違う匂いがします。……ああ、そういえばこの人、杖を取られるとき以外ずっと反抗する“フリ”してただけっすよ」
「ずっと…!?」
「っす。さっきの風魔法も俺の周りだけ弱い風になってたんで……。たぶん、最初から誰も殺すつもりなかったんじゃないすかね」

 思ったことはそんくらいっすと口を閉じたマスルールは、エルハームを見下ろした。マスルールにとって女一人押さえつけることなど造作もないことだったが、女を取り押さえることがあまりないため、いかんせん力の加減が分からない。最初に腕を掴んだとき、思ったよりも遥かに細い腕には驚かされた。今も正直戸惑っている。もう少し力を入れればぽっきりと折れてしまうのではないか?
 シンドバッドのほうも、俯いたままのエルハームを見ながら思案していた。彼女の処遇をどうするべきやら分からない。一国の王として、私情を挟んではならないというのに、親愛の情がどうしても公正な思考の邪魔をする。
 考え倦ねていたとき、小さな声が聞こえた。

「……て」

 消え入るようなそれがエルハームのものだと分かるまでに時間はかからなかった。

「……エル?」

 思わず昔の愛称で呼びかけた。
 もう一度、言葉を発して欲しい。何でも良いから。
 そう思ったのは嘘では無かったが、再び呟かれた言葉に彼は言葉を失った。

「私を殺して」

140217

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