歪んだ足音


 その日もシンドバッドは、隙を見て王宮を抜け出そうとしていた。王という立場上どうしたって責任が伴うから仕方のないことであるとはいえ、机に向かっての作業はどうも性に合わない。こうして抜け出すことが優秀な部下たちに負担をかけることになるのはわかっているが、きつく禁酒を言いつけられているストレスもあって、シンドバッドはもう限界であった。
 幸い、今は口うるさい部下も己の仕事が忙しく、この部屋にはいない。見張りと称して何人かの兵士が控えさせられてはいるが、伝説の男シンドバッドを見張るにしては経験も能力もまだまだ足りぬ若い兵士だ。──よし、いける。彼は確信し、なにくわぬ顔をして席を立った。そして、兵士が戸惑ったその瞬間、脱兎のごとく駆け出した。

「しまった!」
「また王が脱走なさったぞー!!」

 知らせはすぐに従者の耳に入るだろう。さあ、どうやって逃げおおせるか。シンドバッドは走りながら考える。見つかれば、今度こそ椅子に縛り付けられて、優秀な部下に直に見張られながら仕事をする羽目になるのは間違いない。まずはどこか隠れるところを見つけるべきか。匿ってくれそうな部下は、と考えたところで「シン!」と一番聞きたくなかった声が聞こえた。しかし、どうも声色が思ったものと違う。焦りの中にどこか安堵の色が滲んでいる。思わず足を止めると、ジャーファルはすぐに追いついた。

「今は脱走の件は咎めません。それよりもご無事で良かった」
「まさか、何かあったのか」
「…暗殺者と思しき者が侵入しました」

 標的はまず間違いなく貴方でしょう。単独で乗り込んで来たようで、今はマスルールが取り押さえています。
 淡々と告げられるジャーファルの言葉に、シンドバッドはその形の良い眉をひそめた。

「こんな昼間から…?」

 こんなに明るく人の出入りも多い時に、暗殺者がやってくるなど珍妙なことだ。たいていは、夜、闇夜に紛れてやってくるものである。一般人に変装して侵入してきたというのなら分かるが、ジャーファルによれば、くだんの暗殺者はそうではなく、体型を隠すような形の黒い衣服を纏い、顔は面で隠しているという。
 そもそも、伝説とまで呼ばれるシンドバッドの暗殺に、たった一人というのも妙と言えば妙である。これまでに命を狙われたことは一度や二度ではない。しかし、彼はそれら全てを退けてきた。そのたびに一度に仕向けられる刺客の人数は増えていったが、近年では敵も諦めたのか、刺客が仕向けられること自体なくなりつつある。それを単身で乗り込んで来たというのだから、その暗殺者がよほど手練れなのか、あるいは依頼主がよほど間抜けなのか。どちらにせよ、現状からいって所詮はマスルールに取り押さえられる程度の者であったことには変わりない。
 しかしその程度ならば、おそらく王に話を通す前にジャーファルが大体の処分を決めて牢にでも放り込んでいる。わざわざ王の元へジャーファルが話を持ってきたのは、他にも気になる点があったからだった。

「どうやら奴は魔法使いです」
「暗殺者が魔法を使ったのか? 魔法道具ではなく?」
「はい。捕らえようとした際、風魔法で対抗された挙げ句にかなり強固なボルグに阻まれました。しかし、それらを抜きにして金票をかわす程の身体能力もあるようでした」
「おいおい……お前の金票をかわすなんて魔法使いというには随分優れすぎた身体能力じゃないか。もはや脆弱なんてもんじゃないぞ」

 魔法使いとして生まれた時点で、その肉体は常人よりもやや脆弱と決まっている。それゆえ魔法使いは戦闘向きではなく、毒殺や薬殺などの手段なら別として、一般的な暗殺業にも不向きであるというのがセオリー。魔法使いで体術も人並み以上の暗殺者など、規格外だ。

「なんらかの魔法で体を強化しているということか?」
「それはまだわかりません。そろそろヤムライハが到着した頃でしょうから、解析してくれているかと」
「そうか。……それで、今その暗殺者はどこに?」

 その問いには、今まで淡々と事実を述べていたジャーファルがやや顔をしかめた。苦々しい口調で、一言答える。

「貴方の部屋です、シンドバッド王」

140217 
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