よっつめ
└八
― 三ノ幕 ―
勢いよく旅籠を飛び出すと、すぐに桜の木に駆け寄った。
質素な鶯色の着物が小刻みに震えている。
「大丈夫ですか!?」
私の声に気付いたお婆さんが、ゆっくりと見上げた。
その顔は真っ青で、唇も紫になっている。
弱々しい背中をさすると、浮き上がった背骨が掌に触れてドキッとした。
「い、いまお医者さんを…!女将さんに聞いてきます!」
慌てて立ち上がろうとした私に、お婆さんは小さく首を振った。
そして皺々の手で懐を探る。
「だい…大丈夫、お薬…あるから…」
「で、でも…」
ハッハッと切れ切れの息を零しながらも、お婆さんは目元を緩めた。
そして私に小さな包みを見せるのだった。
「本当に…」
そう言いかけたときだった。
―ポツッ
「あ…!」
どんよりと暗かった空がとうとう雨粒を落とし始めた。
一粒落ちたそれは、間もなくぽつぽつと私達を濡らしていく。
「あの、私、そこの旅籠でお世話になっているんです。雨も降ってきたし落ち着くまでお部屋で休みませんか?」
「でも…」
「ほら、濡れてしまいます!立てますか?」
戸惑うお婆さんを支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
恐縮しながら私に身を任せてくれたものの、お婆さんの顔色はやはり悪い。
(本当にお医者さん呼ばなくて大丈夫なのかな…)
「………」
その時、私はお婆さんの体調と降り出した雨に気をとられて気がつかなかった。
悲しそうに桜を振り返る彼女の視線。
そしてまた、桜の木も淋しく枝を揺らしていた事を。
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