よっつめ
└七
次の日―。
『いいですか、出歩くなとは言いませんがあの桜の付近には行ってはいけません』
「はい…」
『もっとも…今日は雨になるでしょうから…部屋にいるのがいいでしょう』
薬売りさんはチラッと窓の外を見た。
彼の言うとおり、空は薄暗く厚い雲が圧し掛かっている。
『なるべく早く帰りますから』
「わかりました、いってらっしゃい」
私は薬売りさんが安心できるように、笑って彼を送り出した。
とは言え、あまり安心してはいないようで、薬売りさんは何度も振り返りながら部屋を出て行った。
―薬売りさんの元にお客さんが来たのは、部屋で朝餉をいただいている時だった。
なんでも家に具合の悪い娘さんがいるそうだ。
「医者に診せても、原因すらわからなくて…」
そう言うと、すっかり消沈したご夫婦は目頭を着物の袂で抑える。
昨日この町に着いた時に、薬売りさんを見かけた。
独特な柄の着物と大きな薬箱は、しっかりとご夫婦の印象に残っていたようだ。
ここに泊まっていると噂で聞いて、藁にも縋る思いで、今日尋ねてきたらしい。
「すっかり元気も無くなって…数日前まで元気に遊んでいたのに…」
『…ほお…』
話を聞く薬売りさんの片眉がくいっと上がった。
(!!)
それがモノノ怪の類が原因であることを意味している事はすぐにわかった。
『しかし…』
「え…」
薬売りさんは少し渋い顔をすると、私をチラリと見る。
「あ、私は大丈夫ですから!行ってあげてください!」
『…………』
「ちゃんと言われたことも…覚えてます」
どうも信用しきれない、と言いたげに薬売りさんは眉間に皺を寄せた。
しかし、溜息をひとつ吐くとご夫婦に向かって頷いたのだった。
(…まぁ…信用できない、よなぁ…)
何となく窓辺を避けて部屋の真ん中に座ってみる。
薬売りさんに余計な心配を掛けてしまっていることに罪悪感が無いわけではない。
彼がダメだと言うのなら、やはり良くない物なのだろう。
でも…全く気にならないと言えば、嘘になる。
(…なんであんなに悲しそうな顔してたんだろう…)
薄暗い光の中、ぼんやりと通りを見つめていた青年。
その姿がどうにも寂しそうで、胸が痛む。
彼は何をしていたのか…
そして彼は一体何者なのか…
「ダ…ダメ!薬売りさんが心配してるし…!」
ハッとしてわざとらしく独り言を零してみる。
「…あ」
ふと外を見やれば、薬売りさんの言う通りぽつりぽつりと雨が降り出していた。
さっきよりも暗くなった空は、雲がもくもくとしている。
「…薬売りさん、傘持って行ったかな…?」
思わず窓から外の通りを覗きこむ。
すると。
「…あれ?」
あんなに言われたにも関わらず、無意識に桜の方に視線を向けてしまった。
しかし、昨日とは違う光景にジッと目を凝らす。
(…お婆さん…かな?)
誰も近付かなかった桜に、一人の来客がいた。
白髪で質素な着物を着たその人は、細い腕を伸ばして桜の木を撫でている。
背中を向けているのでその表情は窺えないけれど。
お婆さんはゆっくりと何度も何度も桜の木を撫でていた。
しかし、やがてその背中がグッと丸まる。
「え…!?」
そのままお婆さんは膝から崩れ落ちてしまった。
いや、倒れたといった方が正しいだろう。
「…大変!」
薬売りさんの忠告や約束が一気に吹き飛んでしまい。
私は雨が降る通りへ慌てて飛び出した。
三ノ幕に続く
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