よっつめ
└五
「ふぅ…」
まだ雫の落ちる髪を拭いながら、後ろ手に襖を閉めた。
「…薬売りさんってば意地悪なんだから…」
ぶつぶつと文句を言いながら、火照った体を手で扇いだ。
涼しい空気を求めて無意識に窓辺に寄る。
夜風の音にほんのりとかわのせせらぎが聞こえて、私は思わずほうっと息を吐いた。
すると否応無しにあの桜の木が目に入った。
「―っ!!」
"古い桜は人の血を啜って綺麗な花を咲かせる"
目にした瞬間に薬売りさんの言葉を思い出す。
ダメだダメだと思ってるときに限って、うっかりやってしまうものだ。
さっきまでとは違う汗がジワリと滲んだ気がした。
「ほ…本当にそんなに怖いのかな…」
恐怖に混じって何となく否定したくなる気持ちが浮かぶ。
単に怖さから逃れたい言い訳なのかもしれないけど…
こんな町中でそんな事あるだろうか。
薬売りさんが私を怖がらすためにからかったんじゃ…?
「………」
暗闇にぼんやり浮かぶ弱々しい枝を見ながら、思わずギュウッと手拭を握り締めた。
髪から滴った水滴が鎖骨の辺りを滑っていく。
「…あの桜…きっと見事な花が咲くんだろうな…」
思わずぽつりと零したときだった。
「…え?」
薄暗い夜の町並み。
周りの建物も川の水面もはっきり見えないのに、あの桜の木のあたりが光って見える。
それだけじゃない。
その淡い光のすぐ傍。
「ひ…人…??」
この部屋から桜の木まで、そんなに近いわけじゃない。
それなのに、そこにいる人だけやけに浮き上がっているように感じた。
「――っ!」
さすがに私も今までのことを学習しないわけじゃない。
確信は無いけど…でもきっとそうだ。
(…あの人…たぶん人間じゃない…?)
そう思った瞬間、さーっと全身を鳥肌が駆け抜けた。
でも…
私の体はそれに反して、グッと窓辺に乗り出してしまう。
別に引っ張られているわけじゃない。
妙に目が離せないのだ。
(…男、の人?)
ぎゅっと窓辺に手摺を握り締めながら、目を凝らしてみる。
髪を結わず、上等そうな着物を纏ったその人は、特に表情を変えずに立ちつくしていた。
…表情を変えず、というよりは無表情に近いのかもしれない。
それでも少し悲しげに見えるのは、彼の後ろに佇むあの桜の木のせいだろうか?
(少し白夜に雰囲気が似てる…)
人ならぬその風貌と纏う空気は、白夜ややたさんのそれに似ている。
その時。
「―っ!」
その人の視線が、バッとこちらに向いた。
目が合った瞬間、思わず身を引いてしまう。
揺れた髪からぽつりと雫が落ちて、手の甲を濡らした。
そしてすぐに私の体はさらに後ろにグッと引かれた。
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