よっつめ
└四
― 二ノ幕 ―
もうとっぷりと日も暮れて。
「ああーーーー…」
私は広々したお風呂でぐんっと手を伸ばしていた。
『…おっさんみたいな声出すんじゃありません』
「な…っ!?出してません!」
簡単に男湯と女湯を隔てる竹垣の向こうから、薬売りさんの呆れた声が響く。
温泉街というわけではないのに、この旅籠は随分と立派なお風呂を構えている。
屋外に少しせり出した湯船が、露天風呂のようだ。
呆れながらも、聞こえてくる薬売りさんの声もどこと無く脱力してるように感じた。
「いいお湯ですねぇ…」
先程女将さんが言っていた通り、今はこの辺りの物見の季節ではないのだろう。
私が入った頃には数人いたお客さんも、既に上がってしまった。
男湯にもお客さんはいないのか、私と薬売りさんは竹垣越しにこんな暢気な会話をしている訳だ。
『まぁ…風呂で決めたようなもんですからね、この宿』
「そうなんですか?」
『あんな立派な檜風呂に入ったら…ねぇ?』
(おぉ……)
高砂組で入ったいい香りの檜風呂。
ろくろ首騒ぎであまり触れられなかったけど、実は私もお気に入りだったのだ。
そう言えば、あの数日間の薬売りさんもいつもよりかは長湯だったような気がする。
(ふふっ薬売りさんも気に入ってたんだ!)
同じものに心動かしていたとは、なかなか嬉しいものだ。
最近、考えると後ろ向きな思考回路になりがちだったせいか、こんな些細な事でも頬が緩む。
薬売りさんを好きになってから、たとえどんな小さな事だとしても私の感情を揺り動かすのは容易い。
(我ながら単純というか何と言うか…)
『…そう言えば』
「へ?」
なんだか一人、照れ臭くなって体を湯に沈めていると。
『屍桜の話、聞きたいですか?』
「えっ!?」
急に何を言い出すのだ。
素っ頓狂な私の声が湯気と一緒に夜空に吸い込まれた。
「い、いまですか!?」
『えぇ、誰もいなくてつまらないでしょう?』
「いや…今はいいですよ…」
夜風に揺れる木の枝が急に不気味に見えてくる。
湯船に肩まで浸かっているのに、私はぶるぶるっと身震いした。
「あ、あの!私、先に上がってますね!」
『おやおや…ゆっくり温まったらいいのに』
「もう充分です…!じゃあお先に!」
私は勢いよくザバッと立ち上がると、そそくさと浴場を後にした。
…薬売りさんの噛み殺すような笑いを背中で聞きながら。
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