みっつめ
└三十二
昨日はずっと冷や汗をかいていたのか、着物はぐっしょりと濡れていた。
目の下にも盛大に隈ができている。
『…おや、寝不足ですか?お盛んですね』
「く、薬売りさん……」
「嫌味言って無いであいつ…小夜を何とかしてくれ!」
旦那さんはガタガタと震えながら薬売りさんの着物を掴もうとした。
しかし再びそれはペンッと払い落とされる。
『何でです?一緒になってやったらいいじゃないですか』
「な…!無理だ!あんな化け物と!今だって小夜がやっと離したから抜け出してきたのに…」
『おやおや、もう女将もいないし高砂組に帰っても居場所がないんですから…あなたがそばにいれば化け物どころかいつもの淑やかで従順な人ですよ』
「ふざけてないで助けてくれ!………って、へ??容子がいないって…?」
漸く薬売りさんの言葉を理解し始めたのか、旦那さんはおろおろし始めた。
なんだかその姿がまた怒りを誘う。
「容子さんなら、家を出ましたよ」
「え!?何で…どこに!?」
「何でって…!」
憤る私を尻目に、旦那さんが高砂組に向かおうとし始めた。
私はそれを阻止しようと彼の腕に飛びつく。
「何でも何も高砂組に容子さんはもういません!」
『結!危ない!』
「は、離してくれ!容子が、容子がいないと…」
「先に容子さんから手を離したのも背中を向けたのもあなたじゃないですか!」
旦那さんは私の顔を見ると、急にへなへなと脱力した。
そして無様にもめそめそと泣き始めてる。
「そ、そんな…ちょっと魔が差しただけで…容子、容子がいないと俺…これからどうしたらいいんだよぉ」
(う、うわぁ……)
私が顔を顰めていると、薬売りさんは面倒そうに溜息を吐いた。
『…帰りたきゃ彼女と帰ればいいでしょう?棟梁に締められるでしょうけど』
「ひ…それはそれで……っ」
小夜さんといるのも嫌、高砂組に帰って銀二さんに叱られるのも嫌…
それもこれも嫌って、子供よりも性質が悪い。
物凄く軽蔑した眼差しで彼を見ていると、薬売りさんに耳打ちされる。
『……苛々は我慢せずにぶつけた方がいいですよ?』
また私の眉間には皺が寄っていたんだろう。
薬売りさんはちょいちょいっと自分の眉間を指さした。
(……よし!)
私はグッと拳を握ると、いまだめそめそしてる旦那さんの前に立つ。
「何で容子を止めてくれなかったんだよぉ…俺はこれからどうしたらいいんだ…どうしてこんな事に…」
「…どうしてもこうしても……」
「へ?」
ばちーーーん!!!!
「自業自得です!!!」
賑わう町に、平手打ちの音が響き渡る。
『…お見事』
薬売りさんは満足そうに笑うと、ぱちぱちと拍手した。
そうして尻餅をついて目を白黒させる旦那さんを捨て置いて、私たちは町を後にしたのだった。
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