みっつめ
└三十
「昨日から様子がおかしいと思ってたんだ…!ひどいじゃないですか!どうして黙って出て行っちゃうんですか!」
「信介…」
「俺…やっと一人前になったのに…!」
信介さんはクッと唇を噛むと、目元を拭った。
「やっと一人前になれたのに!まだ…まだ女将さんに恩返しも女将さんに親孝行もしてないんですよ!」
「………っ」
「俺を育ててくれたのは…っ女将さんじゃないっすかぁ!!」
(信介さん…)
堰を切ったように信介さんがわんわん泣き出す。
容子さんも肩を震わせて俯いていた。
「女将さん!俺も!」
「俺だって!!」
周りにいた職人さん達も、涙を零しながら彼女の元に駆け寄った。
「…!あ、あんた達その荷物…!」
数人の職人さんの手には、女将さんに負けないほどの大荷物。
すると信介さんは背筋を伸ばして容子さんに向き直る。
「俺、女将さんと一緒に行く!女将さんとまた大工やります!」
「え…!?」
「俺も!俺も行きます!」
「俺も連れてってください!」
何人もの職人さんに詰め寄られて容子さんは慌てたようにみんなの顔を見た。
その決意は、彼等の表情からも固そうだ。
「そんな…高砂組はどうするんだい!」
「…それは心配いらねえ」
「…銀二親方!」
職人さん達を窘める容子さんに声をかけたのは銀二さんだった。
銀二さんは高砂組の法被を羽織ってゆったりと彼女の前に歩み出る。
「高砂組は俺がやってくよ。職人も半分はこっちに残る、なぁに腕のいい奴らばかりだ。先代の大事な店を潰すような事はないから心配はいらねぇ」
「そうっすよ!女将さん!」
銀二さんの隣で佐治さんが大きく頷いた。
「そ、そんな…私はそんなつもりで家を出たんじゃ…」
「……女将、俺は先代の頃からの職人だ。あんたが嫁いできた日だって覚えてる」
「……銀二親方…」
「先代には家族同然に良くしてもらった。だから俺にとってもあんたは家族みてえなもんだ」
銀二さんはいつもの渋い顔を緩めて、目尻に深い皺を刻む。
「…あんたには幸せになって欲しいんだよ。商売はあんたにとって天職だが…あの坊の嫁には勿体無い」
「…………っ」
「坊が組に顔出したら、俺がぎちぎちに締めて躾け直してやるさ。坊は先代の女将に甘やかされすぎたんだ」
さすが棟梁…
旦那さんを"坊"なんて呼ぶ辺り、きっと彼が小さい頃から見てきたんだろう。
佐治さんと信介さんが顔を見合わせて、こっそりにやけたのが見えた。
「こっちは心配しねぇで、あんたは新天地で頑張りな」
「……はい…はい…っ!」
容子さんはポロポロと涙を流しながら、銀二さんたちに深々と頭を下げた。
『……結』
薬売りさんにそっと声を掛けられて、私はいつの間にか流れていた涙を拭った。
(…きっとお見送りまでに募る話もあるよね)
ぽんぽんっと薬売りさんに頭を撫でられながら私たちはそっとその場を離れた。
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