みっつめ
└二十九
「……ん…」
いつもは朝までぐっすりなのに、その日は物音を聞いた気がして薄く目を開いた。
まだぼんやりしたままの頭で窓辺を見れば、やっと空が白じんで来る頃だった。
目を擦りながらふと隣を見れば、薬売りさんが既に体を起こしている。
「薬売りさん…?」
『………結』
薬売りさんは布団から出ると羽織を私に差し出す。
「…?」
『朝のお散歩に行きましょう』
「えぇ…?まだ早くないですか…?」
『いいから、さあ起きなさい』
「わ…!」
薬売りさんに強引に腕を引かれて、私は布団から飛び出すように起こされた。
まだ静かな通りに薬売りさんの下駄の音がカラコロと響く。
朝のピンッとした空気に目は覚めたものの、私は意味もわからず薬売りさんに手を引かれるがままに歩いていた。
「あれ…薬売りさん、こっちは…」
そこは信介さんたちの現場に向かう方だ。
何か用事でもあるのかと首を傾げていると、朝靄の中にひとつの影を見つけた。
「…あ!容子さん!?」
私の声に気付いた容子さんが驚いたようにこちらを見る。
そして軽く頭を下げた。
彼女が大荷物を持っているのが目に入って、私はハッとした。
「よ、容子さん…」
「…最後に、見ておこうと思って」
容子さんは小さく笑うと、まだ木組みだけの家を見上げる。
「信介や銀二親方や、職人みんなの気持ちの篭った家です。良い家になります、きっと…」
(…やっぱり綺麗だな)
しゃんと背筋を伸ばして家を見上げる容子さんは、凛々しくて。
"女将"としての風格も、"女性"としての誇りも湛えているように見えた。
やっぱりどんなに色白で華奢で、お淑やかな人よりも彼女は美しいと思う。
「…私、郷に下がろうと思うんです」
「え…」
容子さんは私達に向きなおすと、静かに話し出す。
「結局…昔の思い出に縋って彼に執着して…自分で自分の首を絞めていたんですよね…」
二日目の夜、仏壇に謝っていた容子さんを思い出した。
薬売りさんのろくろ首退治がどういうものであろうと、彼女は姿を消す決心をしていたのだろうか。
「た、高砂組は…!?」
「高砂組はいい職人が揃っています。これからもきっと彼らなら繁盛してくれると…信じてますから」
そう言って容子さんはニコッと笑う。
これ以上、何か言うのはきっと違うんだろうと思えて。
私は思わず口篭った。
そんな私の代わりに薬売りさんが口を開く。
『…郷に帰ったら何を?』
「もう実家は兄弟に代替わりしてますから、顔を見せたらすぐに住まいを探そうと思います」
『商売はしないんですか?勿体無い…』
「そんな……少しのんびりしてこれからの事は追々考えていこうかと…」
薬売りさんは容子さんの言葉を待たずに軽く振り返った。
そして肩を竦めて、フッと笑う。
『…そうも行かないみたいですよ?』
「あ……!」
(……?)
驚きの表情を隠せない容子さんの視線を追えば。
バタバタと通りの向こうから人が走ってくる。
「女将さん!女将さーーん!!」
「待ってください女将さん!」
「信介さん!それに…」
そこには信介さんや佐治さんをはじめ、高砂組の職人さん達がいた。
みんなまだお酒が残っているのか、若干ふらつきながら走ってくる。
「女将さん!」
「あなた達…!」
ハァハァと息を切らしながら信介さんが女将さんに詰め寄った。
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