ふたりぼっち | ナノ




いつつめ
   └三十



「八重ちゃんが来たのは、もう何年前だったかしら…その頃の私は世話役に心底疲れてしまって…」



――……

(…いつまで続くのかしら)



目の前に並ぶたくさんの海の幸。

魚に貝に海藻…


贅沢な悩みなんだろう。

日々の食べる物に困っている人は、きっと私の想像以上にたくさんいるのだ。


でも、人は慣れてしまう。

慣れてしまうと、当たり前になってしまうと、様々な感覚が鈍っていく。


何とも我儘で横柄な悩みだろうか。



味がしているかもわからない食事を、もそもそと摂っていると、外から子供達の笑い声が聞こえてくる。


無邪気にはしゃぐ声。

それを聞く度に、ああ今日もお腹一杯食べられたのだとホッとした。



(…あ、女の子の声…ああ、隣の村から嫁いできたサトちゃんの娘ね。ふふっ小さな手で可愛らしい事)


「ヒサ」



箸を止めて外の光景に目を細めていると、兄に声を掛けられた。



「兄さん」

「…来てるぞ」

「ああ…」



食事を切り上げて席を立つ。

庭先には三人の女が笠を目深に被って佇んでいた。


地味な着物を着ているものの、笠から流れる艶めいた髪が彼女達の美しさを物語っているようだ。


彼女達は小さくお辞儀するとそれぞれに自己紹介を始める。




「私は船頭の妹でヒサです。何か困ったり相談事があったら何でも言ってちょうだいね」



…本当は困る事なんて無いに越したことはない。


私が相談役に就いてからもうしばらく経つ。

今でこそだいぶ人間と人魚の軋轢は減ったけれど、叔母がやっていた頃は大変だったとよく聞いていた。


幼い私にもわかるくらい、叔母は疲弊しきっていた。




「じゃあ早速案内しましょうね」

「はい、よろしくお願いします」



私は彼女達を連れ立って家を出る。

それぞれの"相手"の元へ送り出すためだ。




「さあ、ここが貴女の住む家よ」

「わぁ、これが人間の家…」

「今、夫となる人を紹介するわね。とてもいい人よ、きっとすぐに赤ちゃんに恵まれるわ」



自分で言っておきながら、本心かどうかはわからない。

私は努めて明るく、そして少しでも面倒事が起きないように祈りながらいつもの台詞を言っているだけだ。




(今夜は彼女達のお披露目を…お酒は足りるかしら…)



実際、新しく人魚が来た日は忙しいのだ。

一応村人に面通しをしておかないと…一緒に暮らす人が突然変わるのだから。



(ああ、忙しい)



「…大丈夫ですか?」

「え、ええ、ごめんなさい。少しぼおっとして…えーっと…」

「八重です」


心配そうな顔で最後の一人が私を覗き込んだ。



「……っ」



元より人魚は皆妖艶で美しいけれど…

彼女は別格だ。


まだ少し幼さを覗かせる表情。

それでいて整った顔立ち。


深く豊かな睫毛は若干の影を落として。

桜貝のような唇は、形よく艶やか。


一瞬、息が止まるのを感じた。




「顔色が優れないようですが…」

「だ、大丈夫よ、心配かけてごめんなさいね」




透き通る朝の海辺のような瞳に、戸惑ってしまった。

同性同士でもドキッとするなんて事があるんだな、と改めて驚く。




「あの、少しお休みになってからでも…」

「えっ」

「…?」




気持ちを落ち着けた途端、私はまた驚く羽目になった。


今まで丘に上がってきた人魚は、兎にも角にも相手の男の元へ早く行きたがった。

こちらの都合などお構いなしに「さあ早く」と言わんばかりに。


そういう所が嫌悪感の一端になっていた事も否めない。


でも、あろう事か彼女は私を気遣うのだ。



「あ…ありがとう…でも大丈夫よ、行きましょう」

「はい、でも無理はなさらないで下さいね」


彼女は柔らかく微笑むと小さく頭を下げた。



同じ人魚でもこうも違うものなのだろうか。

人間でも十人十色なのだから、当たり前ではあるけれど。


彼女の気遣いで、微笑みで、毛羽立った心が穏やかになっていく。

何の事も無い、たった一言の優しい言葉に救われたような気持ちになった。




「…ここが貴女の…」



ガサッ!



「!」



目的の家に差し掛かった時、草むらが大きく揺れた。

そして慌てて去って行く後ろ姿…



(あの娘は…)



あれは村の娘だ。


そう言えばいつだったか「彼も人魚を娶るのか」と聞かれた事がある。

この家の者に想いを寄せているのだろうとすぐにわかった私は、曖昧に答えるしかできなかった。



「………」



私にだって、この娘の気持ちはわかる。

かつて同じ思いをして傷付いたのだから…


それでも、今となっては私は傷つける立場になってしまった。


不意に過ぎった切ない思い出に小さく溜息を吐くと同時に、家の戸が開いた。




「あ…和生さん」

「女将さん…」




顔を出したのは家人である和生さんだった。

今日、八重ちゃんに紹介する人だ。


和生さんは先日老齢のお母さんが亡くなって、一人きりになった。

寡黙な青年で、今まで真面目に漁業に取り組んでくれている。


村に少しでも長く残って欲しいし、何より口を挟む親族ももういない。

和生さんは今回真っ先に名前が挙がったのだ。


しかし彼はギュッと眉間に皺を寄せる。




「女将さん、俺はそういうのは嫌だって…」




この話を持っていったとき、和生さんは難色を示していた。

それでもどうにか村のために、と説得している最中の強行突破だった。


しかし人魚本人の前で拒否されてしまったら、なかなか難しい。

これから仮初めとは言え夫婦になるのだから、最初からの不協和音は無い方が良いに決まっている。





「……っ」




どうしたものかと悩んでいると、しかめっ面でこちらを見た和生さんが、グッと言葉に詰まった。

目を丸くしてこちらを見ている。


こちら、と言うより彼女を…が正しいだろう。


言葉通り釘付けになった和生さんの顔はみるみる内に赤く染まっていった。





「あ、あの…!」




視線を受け止めていた八重ちゃんは、慌てて笠を取ると、ササッと髪を整える。

そしてペコリと頭を下げると、

「これからお世話になります…!」

そう言って小さく微笑んだ。




(あらあら…)




よく見れば、彼女もうなじまで真っ赤になって。

照れ臭そうにもじもじと着物をいじる指先が愛らしい。


あんなに頑なだった和生さんも、頷くように頭を下げた。



こんな事、あるなんて思いもよらなかった。

でも、不思議ではないはず。



“一目惚れ”


契約の為ではなく。

豊かな暮らしとか、子種とかそんなのでもなく。


ただただ、惹かれ合う二人…



何でこんな当たり前の事を忘れていたのだろう。

こんな幸せな光景を忘れていたのだろう。


とても大事な事を思いだしたかのように、私の心は少し晴れた気がした。


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