いつつめ
└二十八
「渚を寄越して。この子がいなければ私と和生さんは普通の夫婦になれる」
「な、何するつもりですか」
「何って、還すのよ。八重姉ちゃんに」
「…!」
「だって邪魔じゃない。この子がいるから和生さんは八重姉ちゃんを忘れないのよ」
「そんな訳…」
「渚を海に還して…そしたらきっと和生さんも私を妻と認めてくれる。私のことを愛してくれる。八重姉ちゃんよりずっとずっと私を好きになるの」
うふふ、と可愛らしい笑顔を見せる奈津子さん。
彼女がここに来た理由は、渚ちゃんをここから投げ捨てようとしていたという事か。
この真っ暗な海に、眠ったままの渚ちゃんを…
「……っ」
恐ろしさと言葉にならない悲しさで、唇が震えた。
しかし奈津子さんは痺れを切らしたように伸ばした両手を更に私に向ける。
「早く!渚を渡して!私だって和生さんに大事に…」
「大事にされてるじゃないですか!」
思わず叫んだ言葉に彼女は目を丸くして口を噤んだ。
薬売りさんも私の方を見ている気配がする。
「…和生さんがいい加減な人なら、あなたを八重さんの代わりにしてたはずでしょ…?」
「……!」
「そんなの悲しいじゃないですか…奈津子さんを通り越してずっと八重さんの面影を追うんですよ?心ではあなたじゃない人を見ているのに、あなたに触れたら…一番傷つくのは奈津子さんじゃないですか…」
何でだろう、私はこの人が怖いのに。
八重さんと入れ替わるのが当然と思っていたり、それで和生さんに愛されるって信じて疑わなかったり。
こんなに小さな渚ちゃんを海に投げようとしていたり。
それなのに、怖いと同時に何だかとても可哀想に思えて…
『…結が泣くことないでしょう』
「…う…っ、は、はい…」
薬売りさんがぽん、と頭を撫でる。
少し呆れ混じりの溜息を吐きながら。
そして奈津子さんの方を見据えて、静かに言った。
『あなたは、何だかんだ言って八重さんに縛られてるんですよ』
「な…!?」
『八重さんが好きで、憧れて、羨ましくて。八重さんの持ってるものは全て手に入れたくなった…それが男だろうが髪飾りだろうが貝殻だろうが一緒なんですよ』
「い、いい加減なこと言わないで!」
『"八重さんの物"だから、とっても素敵に見えて自分も手に入れてみたくなった…でも実際どうです?思ったよりいいもんじゃなかったでしょう?』
「……っ!」
『自分に振り向いてもくれない和生さんは、ちっとも優しくなくて、素敵な笑顔なんて見せてくれない。それどころか今でも八重さんを待っているように思える』
「やめ…やめて…!」
『そんな八重さんの忘れ形見は、一向に懐いてくれず…彼女にそっくりな目で睨みつけ。挙句"お母さんじゃない"…』
(く、薬売りさん…?)
さっきから薬売りさんは奈津子さんを煽ろうとしてるように見える。
いや、見えるっていうより、実際煽ってるんだ。
奈津子さんに言葉をぶつける薬売りさんは、口角が上がってる割に異様に冷めた目をしていて。
彼が心底軽蔑したらこんな表情をするんだろうと、容易く想像できた。
(言ってることには…まぁ同意できるんだけど…)
何か意図があるんだろうとは思う。
でも一体何が…?
「うるさいうるさいうるさい!!!」
「っ!?」
もう耐えられなくなったのだろう。
奈津子さんは両手で頭を掻き毟りながら叫んだ。
血走った目は、もうすでに人魚というより、鬼だ。
「あんたに何がわかるのよ!他所者には関係ないわ!!早く渚をよこしなさい!こんな子いらない!早く!渚をよこせえええ!!!」
「っ!!」
届くはずなんてないのに、両手を伸ばす奈津子さんが恐ろしくて、私は腕の中の渚ちゃんを庇うように抱きしめる。
それとほぼ同時に、私を薬売りさんが背中に隠した。
ごぽ……っ
「え……」
薬売りさんの背中越しに、異様な音が耳に飛び込んできた。
その音を理解しない内に、すぐに奈津子さんの悲鳴が響き渡った。
「ひ…っ!!な、なんで…きゃあああ!!」
「!?」
体勢を直して薬売りさんの肩越しに岩下を見れば。
「はな、離して!!」
真っ黒な海から、ずるり、と手が伸びている。
その手はしっかりと奈津子さんの足首を掴んでいた。
そしてゆっくりと上へと伸びて行き。
ざば…んっ
海と同じくらい真っ黒な人影が奈津子さんの体を抱え込む。
ベッタリと濡れているのは髪だろうか、その隙間から大きな目がらんらんと光っていた。
「なんで…八重姉ちゃん…!」
(八重…さん…!?)
黒い影は嬉しそうに目を細めると、そのまま奈津子さんをぐっと後ろに引いた。
「いや、やだ八重姉ちゃ…いやあああ!!」
「奈津子さん!」
奈津子さんは体を仰け反らせて抵抗している。
しかし、それも虚しく…
さばーーぁん!!
ぐらりと揺れた直後、彼女の体は暗闇に飲み込まれていった。
「奈津子さん!!」
『結!』
思わず飛び出しそうになった私を、薬売りさんが制する。
私はただ呆然としながら、真っ暗な海を眺めるしかできない。
ひぃあああああ……
人魚岩の風音が響き渡る中、海は規則正しく波打っている。
さっきまでの出来事が、まるで嘘のようだ。
(…薬売りさんは気づいて…?)
だからあんな風に奈津子さんを煽ってた…?
『……まるでこうなる事が予測できていたかのようですね』
「え…」
『それとも恐怖で声も出ませんでしたか?』
急に話し出した薬売りさんをきょとんと見上げてしまう。
そして彼の視線を追ってみれば。
「…ヒサさん!」
物陰から姿を見せたのはヒサさんだった。
ヒサさんは小さく頭を下げるとぽつりと呟く。
「あの子は…なっちゃんは、いつかこうなる運命だったんです」
提灯明かりに浮かぶ顔は、悲しそうに、でも仕方なそうに見えた。
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