いつつめ
└二十六
ひぃぃああああ……
「…それから私は夜明けと一緒に丘に上がったの」
人魚岩の風音が響く中、奈津子さんは髪を押さえながら語る。
私達は話の内容を飲み込めているようで、そうでなかったのかも知れない。
聞きたい事がたくさんあるはずなのに、全くできなかった。
「でも、八重姉ちゃんから聞いてた家に和生さんはいなかった…仕方ないから浜辺に行って漁に向かう人達の中から彼を探そうと考えたの」
奈津子さんは当時を思い出すかのように嬉しそうに続ける。
「そうしたら、その時腕を掴まれてね……ヒサさんだった。そして私に『貴女…誰?』って聞くのよ」
――……
「海へ還った八重姉ちゃんの代わりに私がここへ来たんです…あの、和生さんは…」
「え…八重ちゃんが海へ…!?それ本当なの?」
「…本当ですけど」
ヒサさんは怪訝な顔をして私を見ていて。
少しムッとしちゃった、人間って何て失礼なのかしらって。
「…こちらへ来てちょうだい」
「あ、ちょっと!和生さんは!?」
「いいから!」
怒ったようにヒサさんに腕を引かれた。
私は何が何だかわからないまま彼女について行ったわ。
そしたら、また八重姉ちゃんの言ってた家に連れてかれた。
「少しここで待ってて?絶対に家から出ないでね」
「え、ちょっと…!」
ヒサさんは私に言い聞かせるように出て行く。
どう考えても歓迎されてないような空気に、少し不安になったけど…
私は言われるまま、家に留まってた。
「…これが和生さんと八重姉ちゃんの家か」
きっとこれといって変わりのない、質素な家なんだろう。
でも、私にとっては初めて見る物ばかりで面白かった。
何よりも、ここで和生さんが生活しているんだ…
そしてこれからは八重姉ちゃんでは無く私と、ここで生活していくんだ。
人間の生活ってどんなだろう。
和生さんと過ごす毎日はどんなだろう。
私はこれから訪れるであろう、未開の日々に頬が紅潮するのを感じてた。
(わからない事がいっぱいだわ…和生さんにいろいろ教えてもらおう!)
そんな風に思いを巡らせていると、ガラッと音を立てて戸が開く。
そしてそこには待ちに待った人の姿があった。
……――
「私、見た瞬間にすぐにわかったわ!彼が和生さんだって!話に聞いていた通り背が高くて、優しそうで…これからこの人と夫婦になるんだわ、幸せだわって」
奈津子さんは胸の前でパチンっと手を合わせると、嬉しそうに笑った。
その様子はまるで初めて恋を知った少女のように可憐だ。
(この人…)
可愛らしい仕草にも関わらず、何だろう、この薄ら寒い感じ。
今では少し勝気にさえ見える美しい顔が、私には怖かった。
薬売りさんも少し顔を顰めて、無言のまま彼女を見ている。
でもその表情は直ぐに、スっと冷めたものになった。
「でも、和生さんの腕の中に小さな子供がいたの」
「…!」
「まだ小さかった渚よ…和生さんに抱っこされて私の事ジッと見てた」
ふんっと意地悪な顔で彼女は笑う。
「八重姉ちゃんと同じ目…大きくて澄んだ瞳。泣くでもなく逸らすでもなく、ただ私を見てたわ」
そして睨むように私が抱えた渚ちゃんを見た。
私は思わず隠すように小さな体を抱きしめる。
「…すごいわよね、八重姉ちゃんったら約束を破ってちゃっかり子供産んでたのよ」
「ちゃっかりって…」
「私にも仲間にも内緒で!ちゃっかり以外の何でもないじゃない!それに…」
奈津子さんの顔は、怒りに満ちてるような、それでいて泣きそうな子供のようだった。
でも、彼女はフッと表情を無くすと、不意に岩場の先に向かって歩き出す。
「あ…!」
奈津子さんは、たんっと軽やかに人魚岩から飛び降りた。
反射的に岩の先端から下を覗くと、彼女は慣れた様子で着物についた砂を払うと、そのまま海を眺めている。
渚ちゃんも飛び降りてた砂場だ…
奈津子さんの話に出てきていた、丘に上がった人魚との待ち合わせの場所はここだったのかもしれない。
抱き抱えた渚ちゃんを見ると、まだすやすやと眠っている。
(渚ちゃん…)
私は小さな体をしっかり抱きなおすと、再び奈津子さんの様子を窺った。
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