いつつめ
└二十二
― 五ノ幕 ―
奈津子さんは人魚岩の先端に向かって歩いていく。
一歩進むその度に、薄暗い提灯と渚ちゃんの小さな足が頼りなく揺れていた。
「……っ」
私と薬売りさんはその様子を岩陰から息を潜める。
本当は今すぐにでも飛び出して行きたかった。
でも、彼女がどういう行動に出るか、見当もつかない。
不用意に飛び掛るのは、返って危険な気がした。
「…っ」
ぐっと衝動に耐えているのがわかったのか、薬売りさんが私の背中に手を添える。
『…よく耐えてますね、いい子』
「…っ!ふ、ふざけた言い方しないで下さい!」
『ふ…っ、ではそろそろ行きますか』
薬売りさんはそう言って立ち上がった。
私も慌ててあとに続くと、奈津子さんは既に岩の先にいて。
「あ…!」
その腕にぐっと力を込めて海の方を見つめていた。
(投げる!?)
「ダメ…!!」
思わず叫びながら飛び出すと、奈津子さんはビクッと振り返る。
「あなた達…!あ!」
奈津子さんが驚いてる内に、ほぼひったくるように渚ちゃんを奪い取った。
「う、わ…!!」
私は勢い余って、そのまま尻餅をついてしまう。
さすが岩場。
振動と共に駆け抜けるような痛みが走った。
「いった…」
『結!』
急に飛び出した私に一歩遅れた薬売りさんが、抱き起こすように支えた。
あまりの痛さに、上手く言葉が出てこない。
『…さっきまでよく堪えてたと思ってたのに』
「うう…ごめんなさい…いたた」
『まったく…』
溜め息混じりに呟きながら、薬売りさんは奈津子さんの方に向き直った。
私もハッとして腕の中の渚ちゃんを見る。
驚いたことに、この騒ぎにも動じず渚ちゃんはくたんと力なく腕に収まっていた。
ぎょっとして顔に耳を近づければ。
「…すぅ…すう…」
渚ちゃんからは規則正しい寝息が聞こえる。
「よ、よかったぁ…」
私はホッとして、その小さな体をギュッと抱きしめた。
『てっきりあなた一人かと思ってましたよ』
「………」
『家族を眠らせて、あなた一人で海に還るのかと』
調合した眠り薬の事を言っているのだろう。
薬売りさんは、眠り薬でご主人と渚ちゃんを眠らせて彼女一人でここに来ると踏んでいたのだ。
「…ふふっ」
「!?」
「何だ、気づいてたんだ」
奈津子さんは、今までの姿からは想像できない、つまらなそうな笑みを浮かべると纏められた髪をほどいた。
海風にふわりと髪が靡く。
少し波打った髪が妖しく揺れた。
「あーあ、せっかく重たい思いしてここまで渚を運んだのに」
かったるそうに手をぶらぶらさせながら奈津子さんが愚痴る。
あまりに今までと違いすぎて、別人かと錯覚しそうだ。
「渚がやけに結さんに懐いてるから気にはなってたんだけど」
「…どうするつもりだったんですか」
渚ちゃんを抱える腕に力がこもる。
私はつまらなそうな奈津子さんの顔を睨みつけていた。
「私が一人で海に還ると思ったって?」
奈津子さんは子供のように無邪気な声で薬売りさんに問いかけた。
そして同時にケラケラと笑い出す。
「そんな訳ないじゃない、何で私がそんな事しなきゃいけないのよ?」
『……では、何を?』
「返してあげようと思って。八重(やえ)姉ちゃんに」
(八重…姉ちゃん…?)
「だって、その子ちっとも私に懐かないんだもの。全然可愛くないわ」
「…っ!」
憎々しげな視線を渚ちゃんに向けながら、奈津子さんが言い捨てた。
(こ、この人は…!)
さっきから何て言い草だろう。
こんな小さな子に向かって…!
『…八重さん、とは?』
いつもは冷静な薬売りさんも流石に苛ついているようだ。
冷たい声が周りの空気も冷ややかにしていた。
「…どうせもう色々嗅ぎつけているんでしょう?話してあげるわ、八重姉ちゃんの事」
ニコリ、と微笑んだ奈津子さんの顔が提灯の明かりに浮かび上がった。
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