いつつめ
└十六
「―渚!」
急に男性の声が飛び込んできた。
渚ちゃんはパッと声の方を向くと、嬉しそうに頬を緩める。
「お父さん!」
無邪気に手を振る渚ちゃんの視線を追うと、そこには優しそうな男の人がいた。
ふと浜辺の方を見ると、パラパラと人が戻り始めている。
彼も漁師なのだろう。
と言っても、日に焼けて筋骨隆々…とは程遠く。
しっかりした体付とは言え、少し痩細っているように見えた。
「あ…」
彼の後方、少し遅れて女の人が浜を上がってくる。
頬っ被りをしているけれど、どうやら渚ちゃんのお母さんのようだ。
「お母さんも来たね、朝のお仕事終わっ…」
「違う!!」
「っ!」
さっきまでニコニコと手を振っていた渚ちゃんが、キッと私を睨んで叫んだ。
ギュッと握られた拳が小さく震えている。
「違う…お母さんじゃない…!」
「渚ちゃん…」
「あんなのお母さんじゃない!」
「あ…っ」
渚ちゃんはそう言うと、お父さんの方へタタっと走っていってしまった。
お父さんは小さく私に会釈すると、渚ちゃんを抱き上げて去っていく。
「あなた…」
少し気まずそうにその後をお母さんが追いかけようとした。
「あの…!」
「……!」
思わず声を掛けると、お母さんは頬っ被りを取りながらぎこちなく笑う。
「おはようございます…渚が遊んで貰ってたようで」
「おはようございます、あの…大丈夫、ですか?」
彼女は少し曖昧な笑顔を浮かべて、困ったように眉を下げた。
「お恥ずかしいところを…」
「そんな…あの、お母さん」
「奈津子(なつこ)です」
「…奈津子さん」
勢いのまま声を掛けてしまったけれど。
いざとなったら言葉が上手く出てこない。
昨日の夕方や今の様子を見ても、渚ちゃんと奈津子さんの関係が上手くいっているとは言い難い。
「お母さんじゃない」と言い切った渚ちゃん。
(あの時…少し泣きそうだった)
大きな瞳が潤んで、海の水面のようだった。
その姿が幼子の愚図った我儘のようには思えなかったのだ。
それに、お父さんも…
渚ちゃんまでとは言わなくとも、やはり奈津子さんとの間に壁を感じる。
一目見た私ですらそう感じたんだから、本人である奈津子さんは相当だろう。
普通なら、子供を窘めてもいい場面なのだから。
奈津子さんの気持ちを思うと、何だか私のほうが悲しくなってくる。
「あの…さっき渚ちゃんが言ってたんです、私が人魚なんじゃないかって」
「え?そんな事を…ごめんなさいね」
「いえ!すぐに違うって納得してくれたんですけど」
奈津子さんはクスクスと笑う。
少し空気が和んだ気がした。
(やっぱり奈津子さんも綺麗だなぁ)
笑顔が柔らかさの中に、不思議な艶っぽさがあって。
渚ちゃんのそれにちょっとだけ似ている気がした。
「何でそう思ったの?って聞いたら、お母さんにちょっとだけ似ているからって」
「………」
「全然そんな事ないんですけどね、あはは!」
「あ…もう本当にあの子ったら…」
「でも、それって」
さっき、渚ちゃんに言いそびれた言葉。
「それって、お母さんが人魚…って事ですよね?」
「………」
ざぁっと風向きが変わった。
さっきまでしていなかった人魚岩の風穴が鳴り始める。
ひぃぃぃぁぁぁあ……
不気味な音が響き渡って、私の心臓は変に脈打った。
「そんな…」
奈津子さんは風に靡く髪を抑えると、ニコリと笑う。
昨日、台所で感じた違和感がまた私を襲った。
でも、それだけじゃない。
「子供の言うことを真に受けられたら困ります」
「……っ、そう、ですよね」
「では失礼しますね」
そう言って奈津子さんは背を向けて歩き出した。
一人取り残された私は、無言のままその背中を見ていた。
湧き上がる寒気に、ぶるっと身震いする。
(奈津子さん、一瞬…)
靡く髪の隙間。
一瞬、奈津子さんの顔が真顔に戻ってた。
その表情がやけに寒々していて、それなのに次の瞬間は笑顔で…
違和感に、恐怖に似た感情が上乗せされた。
ひぃぃいいい……
あぁぁあああああ……
「渚ちゃん…」
冷たい汗が背中を走る。
それを海風が攫い、更に震えさせた。
ちりん…
懐からは天秤さんが心配そうに伺っている。
私は縋るように、胸元の天秤さんに手を添えた。
四ノ幕に続く
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