よっつめ
└三十
「………っ」
『…結』
離れて座ってたはずの薬売りさんの声が、すぐ耳元でする。
背中に触れた暖かさが全身に回るまでそう時間は掛からなかった。
『結』
「は、はい…」
そのまま回された腕が、私の体をキュウッと締め付けた。
それとは反対に私の手はゆるゆると力が抜ける。
背後から抱き締めている薬売りさんは、何度か私の名前を呼ぶとポツリと呟いた。
『…結、持っていかれないで下さい』
「え…」
『もう、あの桜に…あの二人に、これ以上あなたの心を寄せないで下さい』
「……」
表情は見えなかったけど、少し掠れた薬売りさんの声に胸が痛んだ。
私には身を守る術がない。
もし危ない状況になっても、自分ではどうにもできないだろう。
薬売りさんはそれを危惧しているんだ。
ううん。
"それだけ"を心配している。
私が危ない目に遭えばたぶん薬売りさんは助けようとするだろう事は、容易に想像できて。
(…私自身だけじゃないんだ)
身勝手で考えなしな行動を取れば、それはすぐに彼の危険にも繋がる。
そうなれば、敵はモノノ怪だけじゃない。
私が薬売りさんの命を奪う切欠を、作ってしまう事だって充分にありえるんだ。
私が、無意識の内に彼の敵になり得る事も…
「……っ」
自覚した途端、ぞくりと寒気が走る。
きっといいモノノ怪や神様だけじゃない。
いつでも平和に解決する事なんて、きっと無理なのだ。
薬売りさんは、いつもそういう危険と隣り合わせに生きてきたのだ。
(…それなのに、薬売りさんってば私を心配してばっかり)
私に、そんな事じゃ自分が迷惑だと文句のひとつも言いたいだろうに。
鼻の奥がツンとする。
私は上手く声が出せなくて、抱き締める彼の腕にそっと手を添えて。
「…はい」
そう小さく答えて頷くことしかできなかった。
―その夜、いつもの様に薬売りさんは私を抱えて眠って。
私も大人しくそれに従った。
ただ、いつもは薬売りさんの体温ですぐに眠りに落ちるのに。
私は夢と現の間を行き来しながら、戸板の隙間から聞こえる風の音と打ちつける雨粒の音を聞いていた。
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