よっつめ
└二十九
遣る瀬無い気持ちのまま部屋に戻ると、ちょうど薬売りさんが行燈に火を入れているところだった。
仄暗い部屋にぼんやりと灯りが灯る。
『…もういいんですか?』
「あ…はい…」
―昨晩、薬売りさんはあれ以上何も聞いてこなかった。
私もまた、薬売りさんの何とも言えない表情に、朔さんとの話は言えないままで。
何となく罰が悪くて、今日は彼の顔が上手に見られない。
いつもなら追及してくるであろう薬売りさんも黙ったままだ。
『雨…』
「え?」
『降り始めましたね、今晩は荒れますよ』
「………」
美津さんは無事に帰っただろうか。
それに、朔さんの桜もこの風雨に耐えられるだろうか…
無言のまま思案していると、薬売りさんがフウッと息を吐いた。
『…昨晩、あそこで一体…』
薬売りさんがそこまで言い掛けた時、襖の向こうで「失礼します」と声。
『はい』と肩を竦めながら彼が答えると、すぐに襖が開いた。
「雨も強くなってきたので、窓に戸板をはめさせて下さい」
『…ええ、お願いします』
声の主は女将さんで、一緒に来た男の人に指示しながら部屋に入ってきた。
次に続く言葉を見失ったまま、その様子を薬売りさんと見ていると。
「あぁ!そう言えば!あの女の人、思い出しましたよ」
「え?あ、美津さん?」
「そうそう!私が小さい頃、よくあの桜の下で見かけたんですよ。確か…えーと…坂本!坂本の家のお嫁さん!」
ガタガタと作業の音が響く中、女将さんはやや興奮したように続ける。
「お嫁さんを見かけるのは決まって夜でねぇ、夜半に厠に行きたくて起きると見かけるもんだから、幼心に何でこんな時間に?って不思議だったんですよ」
「そうだったんですか」
「何だか桜の下で幸せそうに佇んでるものだから、てっきり上手く行ってると思っていたのに…いつの間にか姿を見なくなったと思ったら、お嫁さんが変わっているんだものー。わからないもんですよねぇ」
女将さんは苦笑いを浮かべた。
しかしその表情はすぐに曇ってしまう。
「さっき…余計な事を言ってしまいましたかねぇ」
「え?」
「ほら、あの桜のこと。随分と落ち込んでいたように見えたから…」
頬に手を当てて、女将さんはほうっと溜息を吐いた。
私も女将さんに曖昧な笑みしか返せなくて…
言葉の途切れた部屋に、作業の音だけが聞こえていた。
『…それで?』
「え?」
『その後の坂本家とやらは、どうなったんです?』
薬売りさんは行燈の火の具合を見ながら、女将さんに問い掛けた。
女将さんは苦虫を潰したような…それでいて好奇心も入り混じったような顔で答える。
「それが彼女の後妻に入った女が、まー業突く張りでねぇ。男の子を産んだはいいけど、家の財産を食い潰した上に、そろそろ金が底をつきそうだとわかるとその金を引っつかんで、さっさと子供と逃げちゃったそうですよ!」
『それはそれは…』
「ただでさえもう三人目の奥方でしたからねぇ…悪い噂もたって、後は没落するばかり。今じゃ家は空き家だって聞きましたよ」
一気にわーーっと喋った女将さんは、今更ながら「あらいけない、喋りすぎちゃった」と肩を竦めた。
私は女将さんの話を聞いて、驚き半分、納得半分…と言ったところ。
(そりゃあ、あんな横暴な人が幸せになんて…)
他人ながら、多少は痛い目を見ていてくれたほうが溜飲が下がるってものだ。
やがて作業が終わり、強い風がガタガタと戸板を揺らす。
女将さんは、
「雨も降ってきたようなので、一応今夜のお出掛けは控えた方がいいですよ」
と言って頭を下げると部屋を出て行った。
一層仄暗くなった部屋で、行燈の光がぼんやりと照らす。
女将さんの言ったとおり、風に混じって雨が戸板を打ちつける音がした。
朔さんの桜は無事だろうか。
美津さんはきちんと家に帰ったろうか。
…あの二人は、本当にもう逢えないのだろうか。
(…薬売りさんが言ってたことって、きっとこういうことだ…)
薬売りさんにあんな表情をさせた癖に、私はやっぱりあの二人が気になって仕方がない。
たまたま関わってしまったからだろうか。
話を聞いてしまったから…
でもそもそもどうして関わる切欠が…?
薬売りさんの言うとおり、私が自分でも意識しない内に"そういう物事"に首を突っ込んでしまっているのか。
きっと薬売りさんは私を心配して昨晩、あんな話をしたんだ。
私が、そういうことに気をつける力が無いから。
自分の身を守る術を知らないから…
「………」
思わず膝の上で両手をギュウッと結んだ。
すると、行燈の光と部屋の空気がゆらりと動く。
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