よっつめ
└二十五
騒ぐ風の音がうるさくて、自分の聞いた言葉に自信がもてない。
そして何よりも自分の心臓の音がうるさくて…
「い、いま何て…」
朔さんは変わらずに川の濁流を眺めている。
でもその横顔はぼんやりしているようにも見えるし、悲しそうにも見えた。
「…美津と話しているうちに」
彼の瞳はうねる水を見ているのか、それとも…
「この娘はなんて不幸なのだと悲しくなった。体も弱く、生きる力はまるで弱い。夫がいるとは言っていたが、毎夜傷付いた魂を引き摺ってここへ来る」
「………」
「花の季節が終われば、我は毎晩姿を見せられぬ…葉の季節からは、我も命を蓄えねばならぬ」
「…美津さんと逢えるのは短い間だったんですね」
「ああ…でも桜の夜の逢瀬は美津だけのものではなかった」
それとも、水しぶきの向こうに、もう過ぎ去った束の間の時間を見ているのか。
瞬きひとつしない朔さんの横顔を、私は悲しい気持ちで見ていた。
「…最初は美津の気持ちが少しでも楽になればいいと思っていた。ただ楽しかったのだ。ここで過ごす時間が、ただ大切だったのだ」
(…美津さんから聞いた話と同じだ…)
「でもある晩、美津は"もう桜の季節も終わる"と言った…その時に、初めて寂しいと思った。今まで町民を見守ってきたが、こんな風に思ったことは無い…美津に逢えなくなるのがたまらなくつらく感じた」
朔さんはまるで痛みを堪えるように、ギュッと結んだ拳を胸に当てる。
そしてそれをゆっくりと開くと、真っ白な掌をジッと見つめた。
「我はこの場を離れて生きていく事はできぬ…でもまた一年後…ここで美津に逢う頃に、彼女は元気に生きているだろうか」
…美津さんの体はその頃からあまり良くなかったのだろう。
本当だったらその日逢える確証だって無いのだ。
そう考えると、二人の過ごした時間はかけがえの無いものだったのだと改めて思う。
「…だから我は…美津をこの体に取り込もうとしたのだ」
「……!」
「体に美津の命ごと取り込んで、この町を二人で見て行ければ…そんな恐ろしいことを考えてたのだよ」
再び結ばれた朔さんの手が震えて見えた。
そして彼は泣く寸前の子供のような顔でこちらに向き直る。
「…あの日、美津がここに来なかったのは正解なのかもしれぬ。美津を待ちながらも、己の恐ろしさに辟易した…」
「そ、そんな……」
「精霊でありながら利己的な事を企んだ罰が当たったのであろう、花の季節が過ぎても、命を蓄えることができず…次の春から桜を咲かせることができなくなった」
自嘲気味な笑みを浮かべて、朔さんは肩を竦めた。
「今ではただの空木だ…天罰とはまさにこういう事をいうのだろうな」
ざっと音を立てて風が舞い上がる。
風に靡く朔さんの髪が綺麗で悲しかった。
二人とも同じような気持ちですれ違っていたのがもどかしかった。
…でも私がしゃしゃり出る事は、それこそ二人の時間に踏み入ることでは無いだろうか。
(…そうだけど…そうなんだけど…!)
昼に見た美津さんの横顔と、朔さんのそれが重なって見えて…
「…さあ、もう夜も更けた。娘、そろそろ…」
「あ、あの!それでも…!」
「え………」
朔さんはそう言うけれど。
私は知ってる。
真っ暗な闇の中で、彼の言葉がどんなに救いだったか。
『私と一緒に、来なさい』
たとえそれが果たされない約束だったとしても。
応えられない夢物語だとしても。
「僕が君の世界を、救ってあげる」
手を差し伸べてくれた、その事実だけで何度俯かせた顔を上げて来られただろう。
「あなたが何と言おうと美津さんは、あなたに救われたんだと思います。方法はどうであれ、それだけが事実で彼女にとって大事なんです…あなたの言葉も、あなたの笛の音も…あなたと過ごした誰のものでもない、二人だけの時間も…ただ大事なんです」
「………っ」
今にも泣き出しそうな朔さんの唇が震えて、キュッと結ばれた。
その表情を見るのとほぼ同時、木々を揺らす風の音に混ざって下駄の音が聞こえてくる。
「…これからもっと空が荒れる…娘、もうお帰り」
「あ…さ、朔さんは…?」
「大丈夫…ありがとう」
ごぉ…っ
「……っ!!」
一層強い風が吹いて思わず目を閉じた。
『……結』
「…!く、薬売りさん…」
『こんな所にいると言う事は…はぁ…』
「ご、ごめんなさい…あの、薬売りさん!この………あれ?」
薬売りさんの声にそっと開けた瞼。
でも、もう朔さんの姿はそこには無く…
ただ大きな桜の木が風に煽られるままに枝を揺らしているだけだった。
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