よっつめ
└十八
― 四ノ幕 ―
「…それから私が目を覚ましたのは三日後でね」
そう呟くと美津さんは静かにお茶を飲む。
私は何も言えずに、ただその姿を見ていた。
「もちろん貴臣は物見に出かけていなくて…姑は看病なんてしてくれる訳も無いから、部屋にはだぁれも居なくて」
「…………」
「なんだかまだ夢の中に居るようで、しばらくぼんやりしてたわねぇ…」
雨足が少し弱まったのだろうか。
軒先をぽつりぽつりと雫が叩く音が響いた。
「それからはまたいつも通り…でもひとつ楽だったのは、姑に叱られても夫に殴られても不思議と辛くなかった」
「え……」
「なんて言うのかしらね、こう…感情が動かないというか…辛くもなければ悲しくも無いのね」
美津さんは困ったように笑いながら肩を竦めた。
私は少し躊躇いながら彼女に問い掛ける。
「あの…それから朔さんとは…?」
「…………」
美津さんは少し俯くと、何も言わずに小さく首を振った。
何か言葉を発するよりも、その仕草だけのほうが悲しく感じて、私の胸はちくりと痛んだ。
「罰が当たったのね、きっと…どんな状況であれ、夫を裏切って駆け落ちをしようとしたんだもの」
「……美津さん…」
「…私ね…それからひと月も経たないうちに坂本の家を追い出されてしまったの」
「え!?ど、どうして…」
「夫の愛人がね、身篭ったのよ。だから薬代がかかるばかりの私に用は無くなったのね」
とても酷い言葉を言っているのに、美津さんは肩を竦めながら少しだけ笑った。
次々に寄せてくる悲しみや衝撃に、もしかしたら彼女の心は少し痛みに鈍くなっているのかもしれない。
少なからずとも、私にも覚えのある感情だ。
「…空っぽの心のまま田舎に帰って…もう父のいない古い家で一人で過ごして…最近になってね、こちらの方にやっと足を進めたのよ」
「そうだったんですか」
「もうね、私の体が限界なの」
「え…」
「自分のことだから自分が良くわかっているの」
そう言って美津さんは、そっと自分の胸を撫でた。
「…最期に一目逢えたらと思ったけれど……」
窓辺をぽつりと雫が落ちる。
その向こうには霞む空気の中、あの桜が見えた。
「………」
静かに桜の木を見つめる彼女に、何と声を掛けたらいいのかわからない。
"きっと逢えますよ!"なんて、軽々しく言ってはいけない気がした。
朔さんと美津さんが過ごした時間は、彼女達だけのものだ。
例え慰めだろうと、社交辞令だろうと、軽い言葉では言い表せない。
美津さんの言う"最期"は、きっと本当に"最期"なんだろう。
そして、朔さんはきっと……
「若い人につまらない昔話をしてしまったわね」
美津さんの声にハッと我に返った。
彼女はゆっくりと立ち上がると、ふうっと息を吐く。
「あ、大丈夫ですか…?」
「えぇ、すっかり楽になりましたよ。ありがとう」
まだ少し青白い顔で、美津さんは柔らかく微笑んだ。
→18/35[*前] [次#]
[目次]
[しおりを挟む]