よっつめ
└十六
それから私は、毎晩こっそりと家を抜け出し桜の木に走った。
「朔!」
「美津、今日は怪我はないか?」
決まった時間で無くても、朔はいつでも桜の下で待っていてくれる。
私は他愛ない話をして、忘れていた笑顔を取り戻した。
別れ際には必ず朔が笛を吹いて…
「またおいで、美津」
「うん…」
また次の約束を交わす。
彼がどこの誰なのか、そんな事はもうどうでも良かった。
夜桜を見上げながら僅かな時を一緒に過ごす。
それだけで幸せだった。
このひと時があるだけで、姑と貴臣の嫌味も暴力も耐えられる。
(夜になればまた…)
どんな状況に陥っても、私には朔がいる。
いつかお父さんにも本当の話をしに行こう。
辛くても支えてくれる人がいると、だから心配ないと。
ちゃんと私は幸せだ、と…
「…美津、病の方はどうだ?」
「最近はあまり苦しくならないの、お医者様もお薬だけは出してくれるから…」
朔と二人、並んで座りながら暗い川のせせらぎを聞く。
もうそろそろ花の季節も終わりのようで、舞い散る花弁もだいぶ減った。
代わりに川の流れに乗っていく薄紅色がぼんやりと見える。
「…もう桜も散ってしまうね」
ぽつんと呟いた私を、朔がジッと見つめた。
思いの外、近い距離にカァッと顔が赤くなる。
少し暖かくなった夜風ですら涼しくて心地よく感じた。
「美津…一緒に来ないか?」
「え……」
「我とくればもう苦しむ事は無い…酷い言葉で傷付くことも、殴られることも無い」
もう緑が混じり始めた桜がざっと揺れる。
朔の綺麗な黒髪が踊るように風に乗った。
「…あ…私……」
本当はすぐにでも頷いてしまいたかった。
"私を連れて行ってください"
そう言ってしまいたかった。
「美津…きっと後悔などさせぬ」
でも朔の言葉が嬉しすぎて、まるで夢のようで。
今言葉を発してしまえば、何もかもが消えてしまいそうで。
私の頬を涙が走る。
朔はそれを優しく指で掬い取った。
「明日の夜…」
「…ああ」
「ここへ来ます…きっと、私ここへ来ます」
嬉しそうに微笑むと朔は私をギュウッと抱き締めた。
朔に逢う為にここへ来るようになって、初めて彼が私の体に触れる。
少し震える腕は、私のほうだったかそれとも彼だったか…
私はただただその温もりと、苦しいほどに高鳴る胸の鼓動を、たまらなく幸せに感じていた。
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