よっつめ
└十四
春先の夜はまだ少し肌寒い。
羽織を持ってでれば良かったな、なんてぼんやりと思った。
暗い夜道に自分の草履の音が虚しく響いた。
「………」
しばらく歩くと、サラサラと川のせせらぎが聞こえる。
俯いたままの顔を上げると、大きな大きな桜の木が視界に入った。
凛と佇むそれは、風に靡きながらはらはらと薄紅の花弁を散らす。
暗い夜空に舞い散る桜は、まるで雪の様にも見えて思わず足を止めた。
ゆっくりと桜の木に近付いてふと見上げれば、夜空は薄紅の天幕に覆われる。
花の隙間から見える空が、作り物の様に見えた。
「…綺麗…」
そっと呟いた拍子、ぽろりと涙が零れた。
「……っ」
―貴臣の暴力が恐ろしくて涙が出たのではない。
そんなものは、あの家に嫁いですぐに枯れ果てた。
では浮気が悲しいのか…
それも違う気がする。
夫に浮気されれば、もっと打ちひしがれるものだと思っていた。
でも、心の隅でどこか安心しているのも事実だ。
「…お父さん…」
あぁ、そうか。
私は父に"幸せに暮らしている"と思い込ませていることが苦しいのだ。
自分のつらい毎日より、きっと幸せになっていると信じているだろう父を思い出したほうが胸が痛い。
今、この酒瓶を投げ捨てて踵を返せば、父の住む実家の方へ続く道。
このまま逃げ帰ってしまおうか。
「美津…幸せに…幸せにな…」
でも、店を畳んでまで私を送り出してくれた父に、どんな顔をして会えばいいのだろう。
いっそこのまま"幸せに暮らしている"と、信じていてくれたほうが、父にとっては安心なのではないだろうか。
「う…っぐず…っ」
考えれば考えるほど行き場のない涙が溢れ出る。
桜の下で立ちつくしたまま、私は声を殺して泣いた。
甘い香りをはらんだ夜風が、濡れた頬を撫でていく。
すぐに家に帰って酒を用意しなければ…
頭ではそう思っているのに、私の足は固まったように動けなくなっていた。
その時。
「…何をしておる」
不意に暗闇から声を掛けられた。
ハッとして振り返ると、桜の木の向こうに一人の男性が立っている。
「あ……」
舞い散る桜の花弁と一緒に揺れる黒髪。
質の良さそうな羽織と、端正な顔立ち。
どこかの旅芸人だろうか。
こんなに綺麗でグッと引きつけられる様な男の人は、役者さんか御伽噺の中でしか知らない。
(…いつからいたんだろう?)
不思議に思いながらも彼から目が離せないでいると。
「…泣いているのか?どこか痛むか?」
「え…あ、お、お見苦しいところを…」
彼は心配そうに眉を寄せると、私の顔を覗き込んだ。
(み、見られてたんだ…!)
急に気恥ずかしくなって着物の袂で顔を隠しながら顔を背ける。
しかし彼は私の手を押さえると、酷く悲しそうに顔を歪めた。
「額が腫れているではないか。これが痛くて泣いていたのか?」
「い、いえ、これは…違うんです」
「でも痛いだろう?だから泣いていたのだろう?」
「痛いですけど…あの、手を離し…」
「では何故泣いていた?」
彼の追及に私は口を噤んでしまった。
こんな所を見られた事を恥と思うのと同時に、自分のこの辛さを理解してもらえなかったらどうしようと。
「そんなのお前だけじゃない」「みんなそんなもんだ」なんて言われたら、それこそ自分の世間知らずを露呈してしまうだろう。
それに見知らぬ男の人に身の上相談だなんて、慎みがないにも程がある。
「……すみません、私…」
…早く家に帰ろう、また貴臣に怒鳴りつけられる。
そう思い直して、彼の手から逃れようとした時。
「………っ」
「動くな、そのままで」
彼はそっと手を私の額に翳した。
触れている訳ではないのに、ふんわりとそこが温かい。
温かくて心地よくて、私は思わず目を閉じてしまう。
「…完全には治らないが、痛みはなくなる」
「……?」
そう言って彼は微笑むと翳していた手をどけた。
「娘が顔に傷など…何故そうなったかは知らぬが、気をつけろよ?」
「…あ、ありがとうござ………っ」
「お、おい!」
彼の言葉を聞いた途端、引っ込んだはずの涙がまた溢れてきてしまった。
こんな風に誰かに心配してもらったのはいつぶりだろう。
優しい手の温もりを感じたのは、いつぶりだろう…
「わ、私…私…!」
気がつくと、私は彼に自分の身の上をつらつらと話し始めていた。
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