第一章
└五
「大丈夫ですか?お嬢さん」
小太郎さんが私の顔をのぞき込むように身をかがめる。
「あ、はい、お騒がせ…わぁ!」
やっと解放してくれたはずの薬売りさんの腕が今度は体に巻き付いていた。
「ちょ、薬売りさん!何するんですか!」
い、いくら何でもこれはやり過ぎじゃあ…!?
『小太郎さんと言いましたね。私の妻がお騒がせしまして…まぁ、よくある夫婦の痴話喧嘩です。お気になさらず』
「「夫婦!?」」
思わず小太郎さんと声が重なる。
(ちょ…今度は何…!?)
『おや、いくら叱られたからって臍を曲げないで下さい。お前がいなくなって心配のあまり少し気が立っていただけですよ』
言葉もないほど驚いている私に、薬売りさんはにっこりと笑うとギュウっと腕に力を込める。
(!!!???)
何、何、いったい何が起こっているの!?
『これは初めて町に出たもんですから、少しはしゃぎすぎたようですね。本当ならば一歩も外に出したくないものを、可哀相だと連れ出してみたらこの有様…』
わざとらしく溜め息をつく薬売りさんに、私はもう言葉もない…
小太郎さんもしばらくきょとんとしていたけれど、急にカラカラと笑い出した。
「そうでしたか、確かにそんなに可愛らしい方じゃ誰の目にも触れさせたくないでしょう。ご主人の心配もよくわかります」
笑いながら小太郎さんが私を見た。
(う…小太郎さんてば…)
照れ臭さに俯いていると、薬売りさんが意味ありげに微笑む。
『…えぇ、特に…これは珍しいくらい無垢でしてね。いつどこの誰に魅入られるかわかったもんじゃない…』
「――ほぉ…」
(…え…っ)
一瞬、張り詰めたように空気が変わった気がした。
でも薬売りさんは表情も変えずに小太郎さんを見ている。
小太郎さんはと言うと、切れ長の目をさらに細めてにこにことしていた。
(な、何…?この空気は…)
穏やかなようでそうではない。
何か二人の間でしかわからない、張り詰めた糸のようなものがあるのだろうか?
「…それはそれは」
沈黙を破ったのは小太郎さんだった。
「白く無垢なものほど染まりやすい…と言う事ですかね」
そう言って私を見てにこりと笑う。
端正な顔立ちに、はからずも心臓が跳ねた。
『…さぁ、そろそろお暇しますよ』
「あ、はい…!」
薬売りさんの冷めた声に我に返ると、私は小太郎さんに向かってお辞儀をした。
「あの、すみません、お騒がせしました」
「いえいえ…楽しい一時でした」
私達の遣り取りを見ると、薬売りさんはふいっと顔を逸らして先に店を離れた。
「あぁそうだ、お嬢さん。これをどうぞ」
そう言って差し出された小太郎さんの手にはさっきの紅玉の簪が乗っている。
「え!そんな、私、お金もってなくて…」
こんな綺麗な細工のもの、きっとすっごく高い…!!
私は両手を振って断ると、小太郎さんはグッと強引に簪を押しつけた。
「良いんです。今日あなたに出逢えた記念に、是非…」
そう言って私の手に簪を握らせると、その手ごとぎゅうっと握った。
「あ、ちょ…そんないただけないです!」
「おや、ご主人がどんどん先に…またはぐれてしまいますよ?」
焦る私に微笑んで、小太郎さんは手を離した。
(わ、本当だ、薬売りさんが行っちゃう…!)
慌てて視線を向けると小太郎さんの言うとおり、薬売りさんはすたすたと町の雑踏に紛れていく。
さっき爪の刺さった顎がチクリと痛んだ。
(こ、今度こそ本気で刺される…!!!!)
「あの、あとで……あれ…?」
私が小太郎さんの方へ向き直ると、すでに彼の姿はなかった。
店の中に戻ってしまったのだろうか…?
「あの、小太郎さん?」
大声で呼びかけても返事がない。
「ど、どうしよう…」
(……はっ!!)
困って佇んでいると、ぞくりと背中に悪寒が走った。
そっと悪寒の元を見やると…
(…っ!!!)
結構な距離のある、しかもこの人混みの中でもはっきりわかった。
私が目にしたのは、まさに"鬼の形相"で私を睨みつける薬売りさん。
冷たくて鋭い視線がぐさぐさを私を刺す。
「す、すぐ行きます!!!」
私は思わず簪を握りしめて、薬売りさんの方へ全力で走った。
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