第四章
└九
― 三ノ幕 ―
『こんにちは』
「……っ!」
玄関の近くから薬売りさんの声がする。
私はハッとして視線だけを動かした。
「…結さんの知り合い?」
藤次さんは変わらず柔らかい笑みを浮かべながら私に聞いた。
「……っ」
「あぁ、そっか。返事できないよね…でも念のため…ごめんね」
そう言うと、藤次さんは手拭で私に猿轡をする。
「少しの間だけ静かにしていてね」
藤次さんはにこっと笑い、私を部屋の端に押しやると玄関の方に歩いていった。
私のいる辺りからは二人の様子は見えない。
「はい…?」
『あぁ、すみません。この辺りに女の子が迷い込んで来ているのを見ませんでしたか?』
淡々とした二人のやり取りだけが聞こえていた。
(薬売りさん…!)
私は声にならない声で彼を呼んだ。
でも…
「いえ…女の子、ですか?」
『えぇ、少しぼんやりした…いや、果てしなく油断だらけな』
(ちょ…酷い…)
「さて…この辺はご覧の通り、あまり人通りが無いので…見かけたらすぐにわかるんですがね」
『…そうですか。では見かけたら宿にまっすぐ帰るように言って下さい』
(……!薬売りさん…!)
「わかりました、見かけたら伝えましょう」
『それと…言いつけを守らないからこうなるんだ、と』
「……?えぇ、わかりました」
二人の会話が途切れると、無情にも戸の閉まる音が聞こえた。
(き、気づいてもらえなかった…)
自分の耳に心臓の音が響く。
「大人しくしていたね、いい子だ」
にこにこと笑いながら藤次さんが猿轡を解いた。
ごくりと唾を飲むと、背筋にスーッと冷たい汗が走る。
何が怖いって…
この状況は勿論なのだけど。
(この人…本気で嬉しいんだ…)
一番怖いのは、藤次さんの笑顔に邪悪さが無いところだった。
きっと、本気で市子さんの遊び相手が出来て嬉しいんだ…。
「じきに痺れも治まるからね。そしたら市子とお手玉でもしたらいい。そうだ、人形だって好きに使っていいよ」
「っ!」
藤次さんは私を抱き上げると、市子さんの部屋に運んだ。
「そうそう、逃げようなんて考えないでね」
そして私をゆっくりと下ろし、そっと頬を撫でながらまた柔らかい笑顔を見せる。
「"人形"になりたくないでしょう?」
「……っ!!」
「僕だって、結さんみたいな綺麗な子に酷いことはしたくないからね」
そして市子さんの様子をそっと見ると、ひとつ息を吐いてゆっくりと部屋の障子を閉めた。
(ど、どうしよう…!)
まずは自分の体を確かめたくて、そっと手を握ってみる。
藤次さんの言う通り、さっきよりも感覚が戻っているように思った。
「…ん…っ」
痺れる体を引き摺りながら体勢を変えると、市子さんは私に気づくことも無く静かに寝息を立てていた。
きっと、藤次さんに何を言っても無駄だ…
(こうなったら市子さんにお願いするしかない…!)
「んん……っ」
私は必死に手を伸ばして市子さんを起こそうとした。
「………っく…」
でも…
血の気の無い、青白いその横顔を見ていると…
「………っ…」
伸ばした手の先は空中で震える。
「…っはぁ…!はぁ…!」
…結局市子さんを起こせないまま、私は倒れこむように天井を仰ぎ見た。
(…ダメだ…市子さんには…言えない)
絶望的な気持ちで見慣れない天井を眺める。
(…薬売りさん…ごめんなさい…)
そっと目を閉じると、目尻からこめかみに涙が流れた。
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