第二章
└十八
急に静寂が訪れる。
「あ……」
思い出したかのように震えだした体を薬売りさんが引き寄せた。
そしてそっと私の目に手を当てる。
『…もう大丈夫です。泣くんじゃありません』
温かい暗闇が私の視界を遮った。
どこかホッとしながらも、私は涙を止められないままでいた。
「…あの…モノノ怪は…?」
『…あれは人の形すら忘れた欲の塊です…中でも金や色情に関する欲は醜い。そして…魔になりやすいんですよ』
…薬売りさんが言うには、恐らく義國さんは欲に狂いモノノ怪を巣くわせていたのだろうと。
そしてその狂気は、同じようにこのお屋敷の女主人を惑わせ色に狂わせた。
『夫君を亡くし悲しみに暮れているところに付け入ったのでしょうね』
義國さんを皮切りに、このお屋敷には入れ替わり立ち替わり男が通っていたという。
ぼんやりと、庄造さんの言葉を思い出した。
『…義國が陥れた女達の恨みと、憎しみと、悲しみがモノノ怪の餌だった。だからあんなにも醜く成長し、義國と関係を持ったここの主人もその狂気をうつされた…と言うところでしょう』
もう形もないほどに壊れた部屋。
静かな夜に虫の音が響く。
「…薬売りさん、心太くんは…心太くんはどうなるんですか?」
私が問うと、薬売りさんはゆっくりと目隠ししていた手を外した。
心太くんは無表情のまま、ぼんやりと空を仰いで立っていた。
「心太くん…?」
私がその名を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「…結、ごめんな」
そう言ってくしゃっと笑った。
「そうだ…これ…」
私が言葉を探せないままで居ると、心太くんはおもむろに自分の懐を探った。
「美園に渡してくれないか?」
そう言って広げられた掌には、可愛らしい兎の根付け。
「可愛い…これもしかして…」
「あぁ、俺が彫ったんだ。俺の母木を使って」
「母木…?」
心太くんは優しい笑みを浮かべて続ける。
「あぁ、木霊である俺の母さんだ。立派な大木なんだぞ」
「そっか…きっと優しいお母さんなんだね」
温もり溢れる木肌の兎。
ころんとした丸い可愛らしいそれに、頬が緩んだ。
「ごめんな…俺、もう行かなくちゃ…」
「え…」
目の前の心太くんがゆらゆらと揺れる。
「心太くん?」
触れようと伸ばした私の手は、薬売りさんに止められた。
『木霊は…その名の通り精霊の仲間です。木霊は生命を育む精霊…森の木々のように"生かし繁栄させる"精霊です。例え、モノノ怪であろうと命を奪う事は禁忌。それが…私情であるなら尚更です』
薬売りさんの言葉に心太くんは静かに頷いた。
"あの子の事が大好きで…だからもういいんだ"
「あ…」
あの時の心太くんの言葉が胸を締め付ける。
「結…美園の事、よろしくな」
心太くんの澄んだ瞳が、屈託ない笑顔が崩れていく。
「あ…嫌…そんな…」
『…結…』
薬売りさんが後ろから私を抱きしめた。
――どうしてだろう。
心太くんは、ただ恋をしただけなのに。
大好きな子を守ろうとしただけなのに。
ただ、ただ、恋をしただけなのに…
「…泣いたらだめだぞ」
心太くんがそう言って二カッと笑った。
「俺、美園を守れて良かったと思ってる。だから、結も泣いたらだめだ」
細められた目から一筋の涙が落ちる。
…次の瞬間、心太くんの体はザッと音を立てて消えた。
「心太くん…心太く…っ!」
泣き崩れる私を薬売りさんは、ただ黙って抱きしめ続けた。
さっきまで心太くんの立っていた場所には、懐かしい香りの土が落ちていて。
「…山に、帰ったんでしょうか…」
そう呟く私に、薬売りさんは頷いた。
『きっと…母木の元に帰りましたよ』
涙で濡れる私の頬を薬売りさんが指で拭う。
『だから…もう泣くのはお止しなさい』
虫の音が悲しく響く中、私達はしばらくそのままお互いの体を寄せていた。
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