ひとりじょうず | ナノ




最終章
   └三十



扇屋を出てきた頃、まだ薄暗かった空はすでに朝日が昇り始めている。

まだ少し冷たい風が私達の間を抜けていった。




「…………」



沈黙が痛くて、私は俯いたまま薬売りさんに対峙していた。




ぺちんっ

「痛っ!」



おもむろに薬売りさんにおでこを叩かれて、思わずビクッと肩が揺れる。



ぺちんっ


「ちょっ」


ぺちんっ


「薬売りさ…!」




さすがに連続で叩かれては俯いているわけにも行かず。




「い、痛いですってば!」



若干涙目になりながら薬売りさんを見る。




『…………』



薬売りさんはいつもの冷たい視線を容赦なく私に投げつけた。




「く、薬売りさ…ぶっ」



片手で私の顔を掴んだ薬売りさんは、あろうことか着物の袖でごしごしと私の口を拭き始める。




「ちょ、ま、ぶっ、薬…そんなに擦ら…ぶふ」

『……油断も隙もあったもんじゃない』



やっと満足いったのか、彼が手を離した時には、すでに私の唇はヒリヒリと赤くなっていた。

涙目になる私を尚も無視して、薬売りさんは懐から見覚えのある紙を取り出した。



(あ……!)



少しぐちゃぐちゃになったそれは、紛れもない、私が彼宛に書いた手紙だ。




『…何です、この手紙は?』

「え…」



薬売りさんはしわくちゃになった手紙を広げる。




『……"薬売りさんへ"』

「!?」

『"一番最後に薬売りさんへの手紙を書こうと決めていたのに、いざ筆を手にすると何から書いていいのか…"』

「ちょ、ちょっと!音読しないで下さい!!」



涙ながらに書いた手紙を読み上げられるのは…かなり、相当恥ずかしい。

取り返そうと伸ばした私の手を軽々と避けながら、薬売りさんはしれっとしている。



『…大体、何なんです。手紙の途中に"綺麗な人だったから覚えてると思いますけど"とか"綺麗な女の人が好きで"とか"叩く""抓る""爪が刺さる"…』

「う…そ、それは……」

『要所要所に苦情と不満を織り交ぜてますね』



薬売りさんは苛立ちを抑えるように、はぁっと溜息を吐いた。

でもそれとは裏腹に、柔らかい声で続ける。




『…で?何です、この手紙は?』

「そ、それは…薬売りさんに御礼と…お、お別れの挨拶…です」

『…………』



私の言葉に反応したのか、薬売りさんの眉がぴくりと動いた。



「本当は…ちゃんと向き合って話をするべきだったんですけど…勇気が出なくて」

『…………』

「ごめんなさい……」




あぁ…

やっぱり思った通りだ。


私の声は段々と萎んでいく。


この涼やかな声を聞いてしまうと…

私の脆弱な決心は途端に揺らいでしまう。


あの細い指で、髪を頬を撫でて欲しいと願ってしまう。





『ひとりで…』



薬売りさんの声に、私の肩は微かに震えた。




『私から離れて…ひとりで行くつもりだったんですか?』

「………っ」

『そんなに…私といるのは苦痛ですか』

「ちが…っ!!」



彼の声が思いの外悲しく響いて、私は弾かれたように首を振る。

薬売りさんはいつもの無表情を微かに歪めて私を見ていた。




「ちが…違うんです…!私、これ以上薬売りさんといると…」

『私といると?』

「……甘えたままでいてしまうし…」

『……………』

「ずっと…ずっと寄りかかったままになってしまいそうで…」

『……要するに』




私の言葉を遮って薬売りさんが、ニヤリと口の端を上げた。




『逃げるんですね』

「―――っ!」



ずきんっと胸が痛むのと同時に、爪先から一気に寒気が走る。




「あ……の…」

『そうでしょう?嫌な現実から逃れて、記憶から姿を隠して…』

「………っ」

『次は過去を知らない人の中に紛れたいんでしょう?』




風呂敷を持った手が、震えた。

口を開けていると、カチカチと歯が鳴ってしまいそうで、ぎゅっと唇を結ぶ。



「…なんで…そんな事…言うんですか…」

『何でも何も本当のことでしょう』

「……っ……」




目の前の薬売りさんは、ニコリと形のいい唇で笑った。

ツンッと鼻の奥が痺れて視界がじわじわと歪んでいく。




「……ですか……っ」



搾り出すような声に、薬売りさんはきょとんと首を傾げる。




「薬売りさんに何がわかるんですか!!」




叫ぶと同時に、再びボタボタと涙が溢れた。

自分の声が裏返って、耳にキンキン響く。



「そうですよ!逃げるんです!だってあんな過去、薬売りさんや絹江さん達だから同情してくれたんじゃないですか!!きっと他の人だったら白い目で見ます、私を鬼だと嫌います!!だって理由はどうであれ、自分の力だけじゃなかったとしても!人を…っ人を斬ったんですよ…!?そんな人間を受け入れる人なんてそうそういないですよ!だから…だから逃げるんです…何事も無かったように私のことを知らない人の中に紛れて生きてくしかないんです!それが悪い事ですか!?」

『……結…』

「あの銀髪の人は…受け止めろって言ってくれたけど…っ、私の気持ちは楽になっても、周りの人はどうなんですか…!?私なんかと一緒にいたら、もしかしたら薬売りさんに…迷惑が掛かるかも知れないじゃないですか…」




一気に吐き出して、息が上手くできない。

涙と嗚咽で目の前がクラクラした。


薬売りさんの言うとおり…私は逃げるんだ。


私の周りの人は優しすぎて、いつか私は自分の罪を忘れてしまう。


きっと"受け止める"って忘れて暢気に暮らすことじゃない。



もし秀ちゃんやよし乃ちゃんのように、偶然あの町の出の人に会ったら?

私と一緒にいる事で、また新たに薬売りさんに迷惑を掛ける事があったら?


何よりも薬売りさんに甘えるという事は、これから先、ずっと薬売りさんに気を遣えと言っているのと同じ事だ。


―そんなの、きっとお互いに耐えられない。



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