第七章
└十八
― 五ノ幕 ―
ばしゃばしゃと泥を跳ねさせながら、下駄の音が響く。
何度も水溜りを踏んだせいか、薬売りの足袋はぐっしょりと濡れていた。
濡れていたのはもちろん足袋だけではなく。
本降りになった雨に、薬売りの髪も着物も、全身びしょ濡れだった。
「おい!」
『…結…っ』
「待てって!」
『…離せ!』
彼を追って来た八咫烏も、同じく全身を濡らしていた。
当て所なく奔走する薬売りを何度も止めようとするも、彼は八咫烏の腕を振りほどいてまた走り出す。
「ちょ…落ち着け!!!」
『……っ!』
力一杯引き寄せると、薬売りは後ろによろけた。
それを支えるように八咫烏が薬売りの両肩をガシッと掴む。
「はぁ…ちょびっと落ち着けって。そんなに闇雲に探してもしゃあないやんか」
『………結と……』
「うん?」
『結と一緒に居たのが、あの幼馴染のよし乃だとしたら…彼女は結に良い感情を持っていない』
「…結ちゃんのこと嫌いっちゅーことか?」
『…しかも結の過去を知ってる……』
ここまで話して薬売りは八咫烏の腕を振り払った。
そしてぎゅっと眉間に皺を寄せる。
『…何か…良くない事を結に話していたら…』
「薬売り……」
見たことの無い薬売りの表情に、八咫烏は言葉を失った。
しかしフッと表情を緩めると、今度は優しく薬売りの肩を叩く。
「…じゃあ尚更、部屋で待っててやった方がええんっちゃうの?」
『…………』
「一旦扇屋に戻ろ。結ちゃんはまだでも弥勒は帰っとるかもしれへん」
八咫烏の言葉に薬売りは顔を俯け、しばらくして小さく頷いた。
扇屋までの道程を、二人は無言のまま歩く。
時折走る稲妻と、それと共に遠くで鳴る雷。
八咫烏が雨に濡れた黒髪を耳にかけながら、隣を歩く薬売りを見やれば。
『…………』
雫の落ちる前髪もそのままに、ただ無表情で歩いている。
八咫烏は小さく溜息をつくと、空を見上げた。
(…神鳴り…嫌な天気やんな…)
もうすぐで扇屋に着くという時。
『――!!』
薬売りがバッと顔を上げた。
ほぼ同時に八咫烏も先にある闇に目を凝らす。
『…血の匂い…』
「あぁ…何かおるな…」
八咫烏は金色に光る目を細めた。
雨雲が作る暗闇から、ゆっくりと足音が聞こえる。
そこにカッと稲妻が走り、その姿が一瞬浮かび上がった。
『――結!!』
「え…結ちゃんと…弥勒っちゃうか!?」
二人が弾かれたように走り出すと、そこにはずぶ濡れになった弥勒と、弥勒に背負われている結がいた。
「弥勒!その怪我はどうしたんや!」
「…う…早く、結、を…」
ずるりと弥勒の背中から滑り落ちそうな結を、薬売りが両手で受け止める。
『……結…!!』
意識が無いままの結を、薬売りはぎゅうっと力一杯抱き締めた。
頬にあてられた結の髪から、じんじんと冷たさが伝わってくる。
「薬売り!早く扇屋に戻ろ!」
八咫烏が弥勒を抱えあげて叫んだ。
薬売りは頷くと、結の体を抱いて雨の跳ねる道を走った。
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