第一章
└十八
どれくらいそうしていただろう。
私は鼻を啜りながら、今の状況をふと考えた。
薬売りさんにおんぶされながら、泣きじゃくった上にあやされている
「………………」
なんだか急に気恥ずかしくなってきた…
どうしよう。
ここは一つ、背中から下ろしてもらおう。
「あの…」
『…結。少し話があります』
「下ろしてください」という前に、薬売りさんは私を静かに下ろした。
もう閉まった御茶屋の腰掛けに私を座らせる。
そして、私の前にしゃがみ込むと見上げるように私を見た。
涼しげな瞳に月が映り込み、薬売りさんの綺麗な顔立ちが際だっている気がした。
『結は…』
近くを川が流れているのだろう。
さらさらと柔らかいせせらぎが聞こえてくる。
『結は、ここに来るまでの記憶が無いですね?』
「は、はい…」
突拍子もない質問と、薬売りさんの真剣な目に気圧されて、心臓が激しく脈を打つ。
「朧気で…思い出そうとするのが苦しいです…」
『…今の結の心は、白い真綿で出来た空洞のようなものです』
「白い…真綿…」
白く無垢なものほど、よく染まる
小太郎さんの言葉を思い出した。
『必要以上にモノノ怪に狙われやすくなるでしょう』
「染まりやすいから…?」
薬売りさんが無言で頷く。
『…私といる限り、その確率は格段に上がります』
心臓がドクンっと大きく脈打った。
『私は…必要があればモノノ怪を斬らねばなりません…つまり常にモノノ怪と対峙する事になります』
いつの間にか握りしめていた手が小さく震える。
『もしかしたら今日より怖い思いをするかも知れないし、いつか結を利用して悪い事をする輩も出てくるかも知れません…それでも…』
「………っ」
『…結』
気がつけば私の目からは、また涙が溢れ頬を伝っていった。
―薬売りさんが私と一緒にいる義理はない。
たまたま助けた娘に記憶が無いから仕方なく連れてきた…それだけなのだ。
もしかしたらあのまま死んでいたかも知れない。
私を見つけた人がもっと非道い人ならば、今は悲惨な状況に置かれていたかも知れない。
こうして安全なところに連れて来てくれた。
感謝以外に何があるだろうか。
「わ、私…」
これ以上、何を望むというのだ。
『…扇屋の夫婦と一緒に過ごす事だって出来るんですよ?』
「私…薬売りさんと…」
今までみたいに…
そんな我が儘、言えるはずがない。
「………っ」
私が俯くと薬売りさんは私の頬にそっと触れた。
『危険なんですよ、きっと結が想像している以上に』
薬売りさんの言葉に、私は唇を噛んだ。
泣いたらいけない。
彼への感謝の気持ちがあるならば、彼の邪魔だけはしてはいけない。
甘えては、いけない。
でも、どうしてこんなに涙が溢れて止まらないんだろう…
『それでも…』
不意に薬売りさんに顎を持ち上げられる。
「……ひっく…」
月灯りに照らされた薬売りさんの顔が淡く光っている。
でも、その顔は涙で滲んでよく見えなかった。
「…私っ…」
『結、それでも私と一緒にいますか?』
「…え?」
『怖い思いもするだろうし、危険な目にも遭います。それでも結が私と一緒にいるというなら…』
薬売りさんの冷たい指が涙を拭っていく。
ぼやけた視界が次第にはっきりし始めた。
『…私が全力で結を守ります』
一瞬、薬売りさんの真剣な、それでいて優しい眼差しが見えた。
でも
「……う………っ」
私の目にはすぐに涙が溢れて、次の瞬間にはまたぼやけた輪郭が浮かぶだけだった。
薬売りさんの言葉に、私はただこくこくと頷くしか出来なくて、そんな私を見て薬売りさんが少しだけ笑った気がした。
『…さぁ、帰りましょう』
「…ひっく…ぐすん…」
『…いつまで泣いてるんですか』
「うぅ…っく、薬売りさん…」
『……まさか』
「…………………」
私達は扇屋までの夜道をゆっくりと歩く。
月の明かりだけが頼りの、暗い道だけど不思議と怖くはない。
『…全く…何回腰を抜かすんですか…』
薬売りさんは少し怒ったように呟いて。
「すみません…」
私は再び薬売りさんの背中に揺られて。
なぜあんなに涙が止まらなかったのか、正直自分でもわからないけれど。
それでも、今なんだかとっても胸の辺りが温かいのは、きっと…
『結は子供みたいに体温が高いですね』
「えぇ?そうですか??薬売りさんが低いんですよ」
きっと、とても幸せな事なんだと思った。
―第一章・了―
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