第七章
└一
― 一ノ幕 ―
前よりも少しだけ涼しくなった風が頬を撫でる。
「ん……」
光が射し始めた部屋で目を覚ますと、真っ先に飛び込んでくるのは衝立の文様。
「………」
もうしばらくこんな風景で朝が始まっている。
かちゃかちゃと小さく響く音に体を起こすと、部屋の端で薬箱をいじる薬売りさんの後姿が見えた。
『…起きましたか?』
「お、おはようございます」
薬売りさんは振り返らないまま『おはよう』と呟いた。
「…………」
…薬売りさんとは、いつかのあの夜からぎこちないままだ。
「薬売りさんは…何で私を連れてきてくれたんですか?」
(…あの時の薬売りさんの表情…)
私の質問に薬売りさんはすごく困った顔をした。
いつもの涼しい顔ではなくて、驚きに満ちた慌てた顔だった。
『…それは…どうでもいいじゃないですか』
そして彼から言われた切実な一言は、私を確実に抉っていって。
その傷を治すことも出来ないまま、時間だけが過ぎていく。
(…"どうでもいい"…か)
何度も何度も頭に蘇る、あの晩の彼の言葉と表情。
思い出すたびに私の胸は馬鹿正直に痛んでいく。
『…結?』
「あ、は、はい…!」
薬売りさんの声にハッとして顔を上げると、彼はすでに支度を終えて薬箱を担いでいた。
『じゃあ…行って来ますから』
「はい…あの…」
『…………』
「…いってらっしゃい」
戸惑って言うと、薬売りさんは少しだけ笑うとそのまま部屋を出て行った。
「…………」
再びチクンと痛んだ胸に気付かない振りをして、私は布団から抜け出す。
今にも歪んでしまいそうな視界を堪えるのは…最近はだんだん慣れてきた。
(……仕方ないじゃん…助けてもらったのだけは事実なんだから…それだけでも…)
ちくちくと胸を刺す棘は、時間が経てば経つほど和らぐような気もするし、強くなってるような気もする。
でも、もしかしたらこれは合図なのかも知れない。
ずっと、薬売りさんに…
絹江さんや庄造さん、それに弥勒くん。
いろんな人に支えられて過ごしてきた。
だから、これは合図なんだと思う。
「…もう…一人で…」
階段を降りきった所で、自分の呟きにギュッと唇を噛んだ。
「あら、結ちゃん!おはよう!」
「あ…絹江さん…」
底抜けに明るい絹江さんの声に、無意識にホッと息を吐く。
そんな自分に気付いて、自分の覚悟がまだまだぼんやりしていることに気付いてしまう。
(…全然駄目じゃない、私…)
「朝ごはんの前にさ、ちょっとおいでよ!面白いもの見られるよ!」
こっそり落ち込む私に気付いてか気付かないでか、絹江さんは私の手を引いて中庭に連れ出した。
「あれ?弥勒くん…?」
中庭には、何故か神妙な面持ちの弥勒くん。
その傍らには、しばらく滞在する事にしたやたさんがニヤニヤしながら立っていた。
弥勒くんは何やら決心したようにフッと息を吐くと、やたさんに短刀を渡した。
やたさんはそれを受け取ると、わざとらしく真面目な顔で頷く。
そしてやたさんに背中を向けて、弥勒くんは地面に正座した。
「え、ちょ、何を…!?」
「…覚悟はええか?弥勒」
「…はいっ!」
弥勒くんがギュッと目を瞑ると、やたさんがスッと短刀を抜いた。
「ちょ!やたさ…!」
「まーまーまー!見てなさいって!」
思わず縁側から飛び出しそうな私を、絹江さんが制する。
そうこうしている内に、やたさんが短刀を振りかざした。
ザクッ!
「っ!!!」
反射的に目を瞑ると、しんとした静けさが襲い掛かる。
と、少ししてカラカラと笑い声が響いた。
「…な、何…!?」
恐る恐る目を開けると、絹江さんは前よりも大きくなったお腹を抱えて笑っていた。
「ぎゃはははは!ひぃぃ!!弥勒くんかっわいー!」
「ぶっ!似合うで、弥勒…ぶふっ!」
よくわからないまま弥勒くんのほうに視線を向けてみれば…
「え!!弥勒くん、髪が…!」
そこにはギュッと目を瞑ったままの弥勒くん。
そして周りに散らばる彼の黒髪…
「ひぃぃ!ちょ、それじゃまるで金太郎…!あーっはっはっはっはっは!!!」
「いやそれはそれで似合っとる…ぶふっ!!」
「あはははは!やめてー!!生まれちゃうーー!!!」
目に涙を浮かべて笑い転げる二人。
状況を掴めない私は、そっと縁側を降りて弥勒くんに近づく。
「一体どうしたの…!?」
「…うん。俺、心を入れ替えようと思って!心機一転、気分転換!」
「そ、それで髪を…?」
「うん!」
長くて豊かだった黒髪は、ばっさりと切り落とされていた。
確かに絹江さんの言うとおり…
(き、金太郎…)
「ぷっ!」
「あ!結まで笑った!!!」
「あはは!わかったわかった、綺麗にそろえてやるから〜」
むくれる弥勒くんを宥めるように、やたさんが器用に短刀を動かし始める。
しょりしょりと小気味良い音を立てながら、地面に黒い髪が落ちていく。
ジッと動かないで髪を切られている弥勒くんは、やる気に満ちてしっかりした顔つきをしていた。
そんな彼を見て、私は何だか少し勇気をもらったような…
心がポッと熱くなるような気持ちになっていた。
「ふふ、似合ってるよ、弥勒くん!」
「本当か!?凛々しい??」
「うん、とっても!」
ずいぶんと短くなった髪を、弥勒くんは照れくさそうに頭を掻いた。
「うんうん、男前になったわよ〜」
「女将さっきまで笑ってたじゃないか」
「だって〜あはは」
さっきまでのモヤモヤは、みんなの笑顔によって吹き飛ばされたような気がしていた。
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