番外章(四)
└五
「崖の上から翡翠色の川が見えただろう?」
「あ、うん。すごく綺麗だった」
「ははは、だろ?…その川の向こうに小さな村があったのがわかるか?」
須王くんの言葉に私は首を傾げた。
(…そんなの、見えたかな?)
川に夢中になりすぎてて気づかなかったのかもしれない。
「その村の土地、全部俺の家の持ち物だ」
「え!?全部!?」
「そ。俺ん家はいわゆる貴族でさ。あの村の中では唯一の権力者だ」
…どうりで、公家の格好なわけだ。
それにしても少し古い気がするけれど。
(…都の人じゃない、からかな?)
私は失礼ながらもそんな事を考えてた。
「…でも、あの村は水害が多いんだよ」
「水害?」
「この川がある日突然暴れるように、溢れるんだ」
「え…この川が?」
思わず洞窟の奥に目をやる。
相変わらず綺麗な翡翠色を湛えた水源は、水害を及ぼすような凶悪なものには到底見えない。
「…怒っているんだよ」
ぽつりと須王くんが呟いた。
その顔は、一瞬息を呑むほどに冷ややかで…
「お、怒るって…何が?」
私は恐る恐る彼に尋ねる。
「…水神様…いや、今はきっと…母上だ」
「は、母上って…」
「あの土地を治める立場にある、俺の家を…親父を恨んでいるんだ」
忌々しそうに吐き捨てると、須王くんはごろりと横になった。
「……母上は、ある神社の娘だったんだ…」
洞窟の天井を見つめながら、須王くんが話し出す。
私はそんな彼を見下ろしながら、その言葉に耳を傾けた。
「母上の実家は蛟(みずち)を祭る神社で…要は水神様の神社だった……母上には不思議な力があったんだ」
「不思議な力…?」
「あぁ、神託をしたり少しだけど先読みの力もあったらしい」
神託…って神様の言葉を人々に伝える、って事だったはず。
「あ…でも、あったらしいって?」
私の質問に須王くんは小さく笑う。
「…山の奥にある小さな神社でさ。年取った神主…まぁ、俺から見て祖父さんだな。地域の信仰者に厚く信頼されてるって聞いた。でも…」
「…………」
「親父はたまたま立ち寄ったその神社で母上をえらく気に入ったらしくてね。権力に物言わせて…半ば誘拐のように母上を娶ったんだよ」
「………っ」
須王くんの視線は、いつの間にか睨みつけるように変わっていた。
そしてその唇をぎゅっと結んだ。
「…あったらしい、って言うのは俺が生まれた頃にはもうその力が無かったからだ」
「え……」
「恐らく、俺を生んだことで失ったんだと思う」
そう言うと須王くんは、よっと、と声を漏らして起き上がった。
「親父はどうしたと思う?」
「…お母さんが…不思議な力を失って…?」
彼はふんっと鼻を鳴らすと、蔑むように言葉を続けた。
「あからさまに邪魔にしたんだよ」
「ど、どうして…」
「もともと不思議な力を持った巫女だったから…それに母上の容姿がお気に入りだったようだからな。力も無くなって、子供も生んだ母上は用無しになったのさ」
「そんな………」
「…ほとんど家に寄り付かなくなって…あちこちの女に手を出して…」
そこまで話すと、須王くんはゆっくりと俯いた。
「………須王、くん…」
横から覗き見る彼の表情は悲しく歪んでいて…
「…ずっと山奥の小さな神社で穢れも権力も知らずに生きてきたんだ…」
「…うん……」
「母上は…どんどんその心を壊して…とうとう俺の事もわからなくなった…」
膝を抱えた彼の腕に、ぽたぽたっと雫が落ちる。
私は掛ける言葉も見つからないまま、言い知れない怒りにも似たを必死に押し込めていた。
「……母上は…少女のような人だった」
「…綺麗な人だったんだ…?」
「あぁ。華奢で、真っ白で…澄んだ瞳の人だった…」
須王くんはぐいっと目元を拭うと、話を続ける。
「母上が心を壊してから、俺は母上に近づくことを禁じられたんだ。それでも俺は女房たちの目を盗んでは、奥宮の母の所に会いに行った。…母上の身の周りの世話は神社の人たちがしていたから。行けば内緒で母上の側に連れて行ってくれた」
「…お母さんの神社の人も一緒に来てたんだね」
「あぁ。そりゃぁ自分たちにとっては大事な姫巫女だ。親父に食らいついて一人だけ…萩野(はぎの)って言う婆さんがね」
萩野さんの話をして、須王くんは少し笑う。
「婆さんって言ってもさ、さすが親父に食って掛かっただけあるよ。萩野は怖いんだ」
「ふふっ、そうなんだ」
「あぁ、今、信じられるのは萩野だけだ」
少しだけ、柔らかくなった空気に私はほっとした。
…が、それと同時に浮かんだ疑問。
「あの…須王くん?今…お母さんはどうしてるの…?」
私の言葉を聞いて、須王くんは笑ったままその表情を固めた。
「…母上は…死んだよ」
「…え…」
「親父…親父に殺されたんだ」
―ぴちゃ……んっ
再び張り詰めた空気の中。
奥の湧き水が跳ねた気がした。
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