第五章
└七
そして、私の背骨は無事のまま仕事に行くことになった日の朝―
「ほら、出来たわよ!」
「わ、絹江さんありがとう!」
普段は下ろしたままの長い髪を、絹江さんが結ってくれた。
「まったく…仕事ならうちですればいいのに」
「もう、絹江さんったら何回目ですか?」
笑いながら答える私に、絹江さんも諦めたように笑った。
「"扇屋で働いたら甘えが出ちゃうから"なんて…結ちゃんらしいわね」
「だって…絶対、休憩しながら絹江さんと話し込んじゃうもの」
「ふふっ、確かに!」
絹江さんは笑いながら、二つの包みを出してきた。
「これね、お弁当。お昼に食べなさいって庄造から」
「え!いいんですか!?」
「いいのよ!あれであの人も心配してるんだから、これくらいさせてやって!」
私って…
私って幸せ者だ…
じんわりと滲む涙を誤魔化すようにギュッと目を瞑ると、私はその包みを受け取った。
「ありがとうございます!お昼の時間が楽しみ!」
「ふふふっ、たくさん食べて頑張るんだよ」
ぽんぽんっと私の頭を撫でると、絹江さんは飛び切り明るい笑顔を見せた。
くすぐったくなるような感触に、私は踊りだしたいような泣きたくなるような気分だった。
「あ…でも、何で二つ…?」
「あぁ、一つは…」
絹江さんはそう言って、ちょいちょいと襖のほうを指差した。
「あ…!弥勒くん!?」
「…よっ」
襖の陰からひょこっと顔を出したのは、弥勒くんだった。
「……あ……」
「……………」
…弥勒くんとは、あの通り雨の日から若干気まずいままだ。
「誰か…いつも近くに、家族以外の"誰か"がいなかったか?」
その質問に私は答えることが出来なかった。
いつもの頭痛と黒いもやもやが襲ってきて…
きっと、弥勒くんは質問した自分のことを責めてる。
(…思い出せない私がいけないのに…)
思わず俯くと、弥勒くんがパンっと手を叩いた。
「!?」
「あー!やめやめ!こんな辛気くせぇの耐えられねぇ!」
「み、弥勒く…」
「結!」
弥勒くんは、がしっと私の手をつかむとブンブンと振り回した。
「あ、わ、お弁当が…!」
「あぁ!?」
落ちそうになった包みを、慌てて絹江さんが受け取った。
「結!」
「は、はい!」
「もうウジウジしたのはお終いだ!」
弥勒くんはもう一度ぎゅうっと私の手を握ると、優しい目をして私を見る。
「…急がなくていいんだよな。ゆっくりで…」
「弥勒くん…」
「結には女将やおやっさんや俺もいるし…」
「ふふ…おやっさんって庄造さん?」
「そう!それに…あいつもな」
弥勒くんの視線を追うと、廊下の影で青い着物が揺れた。
「あ……」
「あいつ、何隠れてんだ?」
首を傾げる弥勒くんに、絹江さんが続けた。
「本っ当に素直じゃないわね…あのね、弥勒くんに一緒に行くように言ったの、薬売りさんなのよ」
「えっ」
「心配だったんでしょうねぇ…」
くすくすと笑いながら絹江さんは溜息を吐く。
「まぁ、花の手入れなら力仕事もあるでしょうから。弥勒くんもしっかり手伝うのよ!」
「おう!!」
「…って、どうしたの!?結ちゃん!何泣いてるのよ!!」
…一人前になりたくて、仕事したいなんて言い出した。
"飼い猫"なんて思われたくなくて、きちんと大人になりたくて…
でも。
でも、私はこんなにもみんなのお世話になって生きている。
結局、私のしたことは、突っ張って不貞腐れて泣いて、そして泣き疲れて眠っただけだ。
みんな、みんな、優しくて。
それぞれの心配をしてくれて。
それなのに私だけが、我が儘で。
「だ、だって…みんな優しくて…っわた、私だけ優しくない…」
「えぇ!?何言ってるの!?」
絹江さんは困惑した顔で私の頬を拭いた。
「あのね、みんなそうやって生きてるのよ。結ちゃんだけが特別じゃないの!」
「う…っひっく」
「少しでも我が儘言ってるって思ってるなら…しっかり働いてきなさい!ね!」
ばしっ
「うっ…げほ…っ」
「お、女将!!そんなに背中叩いたら結が吹っ飛ぶ!」
「え、やだ、ごめん!」
本当に本当に、みんな優しくて…
きっと私が出来ることは、泣くことじゃない。
「ありがとう…ありがとうございます…!」
私は精一杯の笑顔を浮かべて、涙を拭った。
二人はそんな私を見て、嬉しそうに頷いていた。
『…そんな顔で仕事に行く気ですか?』
「薬売りさん…!」
和やかな空気の中、薬売りさんが部屋に入ってきた。
『顔ぐちゃぐちゃですよ』
「え、あ、洗ってきます!」
「あはは、ほら結ちゃん冷たい水でさっぱりしてから出掛けなさい!」
呆れ顔の薬売りさんと笑ってる弥勒くんを部屋に残して、私と絹江さんは、ばたばたと部屋を出た。
(本当に…本当にありがとう…!)
―きちんと仕事して、みんなにいい報告が出来るようにしよう。
私はそう心に誓って、弥勒くんと二人でお屋敷に向かった。
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