第五章
└六
― 二ノ幕 ―
「……ん…」
何か頬を走る感触に、ふと目が覚めた。
(あれ…私…?)
瞼が腫れぼったくてうまく開かない。
覚醒しない頭で、ぼんやりと思い出す。
(…薬売りさんが出て行って…そっか…そのまま…)
つま先で探ると、畳の感触。
部屋でめそめそしたまま眠ってしまったのか。
(あぁ…また薬売りさんに子供扱いされる…)
目をこすりながら、どうにか瞼を持ち上げる。
「…ん?」
…と、薬売りさんの藤色の瞳が目の前にあった。
「…へ?あ、あれ???」
何度か目をこすって開け直してみても、やっぱりそこには薬売りさんの無表情がある。
「く、薬売りさん!?」
『…………』
混乱する私を尻目に、薬売りさんはまったく表情を変えず私を見ている。
(な、何!?薬売りさんの顔が倒れてる…?あ、一緒に寝てるのか…えぇ!?何で!?てゆーか頬!!何か感触があるっていうか、明らかに薬売りさんの手だし!)
今の状況を理解すればするほどに、色んな疑問がぐるぐると頭を駆け巡る。
「あ、あの…帰って…」
『……間抜け面』
「来て…はぁ?」
言うに事欠いてこの人は…
『はぁ?とは何です。生意気な』
「え…いたたた!」
そして少し眉を顰めると、撫でていた指でそのまま頬をつねった。
『夢じゃないでしょう?』
「ひゃ、ひゃい…」
ぴんっと弾くように指が離される。
「うぅ…痛いですよ…」
涙目になりながら頬をさすると、やっと自分の体が然程冷えていないことに気付く。
「あ……」
(こ、これは…)
これは…薬売りさんの腕枕…って奴だ。
急に心臓が跳ねた気がして、反射的に薬売りさんを見た。
「…あ、あの…いつから…」
『……どんな』
ほぼ同時に話し出してしまって、咄嗟に口を噤む。
すると一呼吸おいて薬売りさんが話し出した。
『…どんな仕事をするんですか?』
「え……?」
一瞬、理解が出来なくて言葉に詰まってしまう。
『どんな、仕事を、するのか、と聞いているんです』
「あ、え、えっと…」
少しだけムッとした顔に変わるのを見て、慌てて答える。
「あの、漬物の小松屋(こまつや)さん紹介で…女の人のお家にあるお花の手入れです」
『家の花?』
「はい…何でも大きな花壇があるそうで、一人じゃ手入れが行き届かないからって」
『…庭師に頼めばいいじゃないですか』
「う…私に言わないでください…」
薬売りさんは呆れたように溜息を吐くと、再び私の頬に触れた。
「…っ」
自分の体がぴくんと揺れたのがわかって、さらに私の胸はうるさくなった。
何も言わないまま、薬売りさんはじっと私を見ている。
少しだけ…さっきと少しだけ違うのは、藤色の瞳が微妙に淋しそうに見える事。
「薬売り…さん?」
『…三日だけ』
「え?三日?」
頬に触れた薬売りさんの手が、珍しく温かい。
『三日だけなら、仕事に出ていいですよ』
「え…!本当ですか!?」
『…ただし』
「う、わ…」
薬売りさんは、ぐっと自分の腕を曲げると、そのまま私をギュッと抱きしめた。
「く、薬売りさん!?」
『ただし…三日以降は』
戸惑う私を無視したまま、その腕にさらに力がこもった。
押し付けられた胸から、薬売りさんの少し早い鼓動が聞こえる。
『…三日以降は、私から離れる事は許可しません』
「………」
(…震えてる…?)
今のこの状況より、いつも違う薬売りさんに気が行ってしまって…
私は無言のまま、薬売りさんの胸元で頷いた。
『…約束です』
「はい…」
『守れるなら、仕事に行ってもいい、ですよ』
自分の耳を疑ってしまう。
(…許してくれた…?)
昨日見た薬売りさんの様子からして、もう口もきいてもらえないと思ってた。
そして…薬売りさんの心配する気持ちが、痛いほどわかるから…
仕事の話は断る選択肢を選ぼうと思ってた。
(それなのに…)
薬売りさんの言葉に、思わず涙が出そうになる。
腕の力を少しだけ緩めると、薬売りさんはぽんぽんと私の背中を撫でた。
『…まだ夜明け前です…もう少し寝ますよ』
(…もしかして…)
彼は、もしかしてこの一言を言うために、私が目を覚ますのをずっと待ってた…?
仕事に行っていいと、たったその一言を言うために。
いつ起きるかもわからないのに…
「………っ」
私は湧き上がるような嬉しさに、身悶えしそうになった。
やっぱり。
やっぱり、薬売りさんって優しいんだ…!
『…寝ないんですか?』
「ふふ、はい…でも嬉しくって…ふふふっ」
『何です、気持ち悪い』
相変わらず口の悪い薬売りさん。
でも図らずとも緩んでしまう私の頬。
ニヤニヤが止まらない…!
『…もし…』
「うふふ、へっ?」
『もし、この腕に思いっっっっきり力を込めたら、結の背骨はバキボキとそれはそれはいい音を立てながら折れ…』
「寝ます、今すぐ寝ます」
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