第五章
└四
―――夜。
薬売りは当て所なくふらふらとした後、小さく溜息を吐いて扇屋の暖簾をくぐった。
少し気の重いまま、自分の部屋を目指そうと階段を見つめる。
『…………』
しかし、思い出されるのは泣きそうな顔で自分を見つめる結の姿…
(…かなり…怯えていたな…)
猫のような大きな瞳を、さらに見開いて自分を見ていた。
その様子は明らかに恐怖を帯びていて。
『………ちっ』
ぶつけ様の無い苛立ちと後悔に、薬売りの足は重くなる一方だった。
「…薬売りさん」
不意に掛けられた声に、ハッとして振り向く。
『…庄造さん』
そこには柱の影からひょこっと顔を出した、庄造の姿。
そして庄造は無言のまま、悪戯っ子のように笑うと片手に持った一升瓶を指差した。
薬売りはその様子にフッと微笑むと、庄造の方へ足を進めた。
「ほい、これはなかなかいい酒だよ」
『ふ…っ、いただきます』
薄暗い台所の片隅。
二人は向かい合ってぐい飲みを傾けていた。
小さな皿に庄造が簡単に作った肴が並び、何とも色気の無い酒の席。
でも不思議と、今の薬売りには居心地がよかった。
「こうして薬売りさんと飲むのは初めてかも知れねぇなぁ」
庄造は嬉しそうに笑うと、一升瓶から直に薬売りのぐい飲みに酒を注いだ。
『…そうですね、女将の声は良く聞くんですけどね』
「はは!あいつはうるせえからなぁ!」
薬売りの小さな嫌味を、庄造は豪快に笑い飛ばした。
「女ってのはどうしてあぁも口うるさいかねぇ」
『ふふ…まったくで』
「しかもこっちの考えも聞く前から反発しやがってなぁ」
『………』
薬売りは、何も答えずにぐっと酒をあおった。
その様子を見て、庄造が眉を下げて笑う。
そして再び薬売りに酒をすすめた。
「…でもまぁ、今日はちょっとばっかり言い過ぎたみてぇだな」
『……聞いていたんですか?』
「あー、絹江がな!悪いね、立ち聞きなんてした上に又聞きまでしちまって」
申し訳なさそうに庄造が笑うと、薬売りは溜息混じりに小さく首を振った。
『……何をあんなに意地になってるんだか…』
「あぁ…結ちゃんも今回は折れなかった見たいだなぁ」
『まったく…大人しくしていればいいんですよ、結は』
珍しく表情を変える薬売りに、思わず笑いがこぼれた。
『…何です?』
むっとして睨む薬売りに、庄造は慌てて両手を振った。
「あ、いやいや。難しいもんだなと思ってさ」
『…難しい?』
「いやさ、黙って守られてれば幸せだろうとこっちは思っていてもよ。そうじゃねぇって突っぱねるんだから、その先は男にゃ想像できない何かがあるんだろうよ」
『…………』
「何だろうなぁ、女と男じゃ何かが違うんだろうなぁ。男には何かひとつ足りないんだろうよ」
『足りない…』
「ん。男のほうが明らかに単純で不器用だからさ。女の心の繊細なところまでには気付けねーから、小さな切欠で爆発するんだろうなぁ」
庄造は何か自分の出来事を思い出すかのように、しみじみと呟いた。
薬売りは小さく笑うと、庄造から一升瓶を受け取り酒を注ぐ。
『…確かに。そうかもしれませんね』
ハハッと照れ笑いをしながら庄造は頭を掻いた。
「まぁさ、結ちゃんのことが心配なのはわかるけどさ」
『…………』
「薬売りさんが本気を出せば、結ちゃんはその日の天気を知らないで過すこともできるだろうよ」
庄造は、にやりと笑って続けた。
「…でも、たまには折れてやったらどうだい?働くならうちの手伝いでも十分なのに…敢えて外に出たいって言ってるならさ、何か考えがあるんじゃないのかい?」
『…………』
「うちにはまだ子供がいねーからよ、結ちゃんが可愛くて心配なのは薬売りさんと同じだよ」
『…………』
何か考えるように、薬売りは無言で庄造の話を聞いていた。
「…それに、薬売りさんだって最近忙しそうだし、一人で待ってるよりかはいいんじゃないのかい?」
『……えっ?』
ふっと自分のほうを見た薬売りを肘で小突きながら、庄造はニヤニヤと笑う。
「最近…廓の姐さんにご執心なんだって?」
『ぶっ』
酒を噴出した薬売りの背中を嬉しそうにバシバシと叩いた。
「いいんだよ!男は単純なんだからよ!出すもん出したら熱も冷めるんだろうから!」
『ちょ…出すって…その前に痛いですよ…』
「あーはははは!!」
『…庄造さん、酔ってますね…』
呆れ顔の薬売りに構わず、庄造は楽しそうに酒をあおるのだった。
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