「さくじゃん。なに、どったの」
「いや、別に」
上原は高瀬の気配に顔をあげ、“さく”と、親しい友人のように名前を呼び、また読めもしない歴史漫画に視線を落とした。まあそうだな、この二人が仲良くても違和感はない、か。
「あ、高瀬」
「ん?」
「これ、返却されてたけど、借りる?」
先ほど積まれていた中にあった一冊の本を高瀬へ差し出すと、「あ、借りる。ありがとう」と小さく微笑まれた。
貸し出したとき、たまたま隣にいた彼がふと「この本あったんだ」と呟いていたのを思い出して、本棚には戻さず手元に置いておいたのだ。もちろん、高瀬がこなければあとから戻すつもりだった。
「どうぞ」
高瀬からしてみればそんなこと聞かれているとも思っていなかっただろうし、たとえ聞こえていてもわざわざ教えてくれるなんて考えもしなかったのだろう。小さな微笑みの奥に、一瞬驚きの色が見えた気がした。
「シマ、これ読んだことある?」
「うん」
「そっか」
嬉しそうに、少しだけ口元を緩めた高瀬はさらさらと名前を書いてカードを差し出してきた。それを受け取ると、つい先日もらった桜味のあめ玉がぽろりと手に落ちてきた。薄桃色の可愛らしい包み紙にくるまれたそれを慌てて握ると、ポケットの中の温度が移っていたのか僅かに温かかった。
「じゃあ、借りてく」
「はい」
「また明日」
「うん、気を付けてね」
ひらりと一瞬手を振った高瀬を見送ると、帰ってきた静寂を許さないように上原ががたんと立ち上がった。
「どうしたの」
「シマ、さくと仲良かったっけ」
「え?あ、委員会一緒なんだ」
「さくが図書委員やってんの?」
「うん」
「似合わねーの」
あんまり人の悪口を言わない上原が、一瞬だけ眉にシワを寄せてそんなことを言うから驚いてしまった。でもそれはすぐに消えて、「シマもあんまり似合わないけど」と言って笑った。
「シマごめん、おばばから呼び出しのメール来たから帰るわ」
「何したの」
「今朝おばばの口紅落としてボキッと。それがばれて今すげー電話とメールきてた」
「すぐに謝ればよかったのに」
「いや、うちのおばばマジで鬼だかんな」
本棚へ漫画を押し込み、上原は忙しく俺の前まで来ると律儀に「また明日。気を付けて帰れよ」と微笑んで去っていった。本当に、ずっとそういう風ならモテるだろうに。
パタパタと廊下に響いていた足音はすぐに聞こえなくなり、一人きりになった図書室で俺は窓際の席へ移動した。
窓際にカウンターがあれば良いのになと、何度も思ったけれど今さら無理な話だしそんな考えは早々に捨てた。代わりに、もう誰もこないだろうなと自己判断を下してカウンターを離れるのだ。
「あ、上原の…」
行儀悪く、いつの間にかネクタイを取り去っていたらしい上原。今の今まで彼が座っていた隣の椅子に、ひっかけられたまま置いてきぼりにされている。明日の朝渡そせばいいか、あとで一応メールだけ入れようと考え、本を開く。
読みきった本をもう一度読む、というのは自分にとって珍しいことではない。好きだとか面白いとか以外でも、理解できなかったもの、結局何が言いたかったのか分からなかったもの、想像がうまくできなかったもの、なんでも二度目というのはあった。でもこの本はそのどれとも違う感覚で、もう一度最初から目を通そうと思った。
「緩やかな勾配の坂をのぼると、すぐに視界が開ける。青々と繁る木々を横目に、眼下に広がる自分の住み慣れた町を見下ろす」
例え緩やかであっても、自転車をこぐには少し辛く、じっとりと汗をかいた。シャツがひたりと胸に張り付き、吹き出る汗は耳の後ろから首筋をなぞる。シャツの襟に消えていく水滴を腕で拭いながら自転車を道脇に停め、橋本は長いため息をひとつ落とした。
ハンドルは汗が染み込み、握っていた部分の色が濃くなっていた。それに気づかないままスラックスのポケットからハンカチを取りだし、額の汗を拭き取る。
「……」
今が春であることを忘れ、俺は文字のまま景色や匂いを想像した。肌寒いくらいなのに手にはじっとりと汗が滲んでいて。文章のなかにはひとつも、時期の説明がないのに、だ。けれど穏やかに進む話とは裏腹に、この先の展開を知っている分、何とも言えない複雑な気持ちになる。
『ピピピ、ピピピ、ピピ…』
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