「シマ大丈夫?歩ける?」
「うん、平気」
少しずつ気まずさが溶けて、俺は一杯だけ店長おすすめのカクテルを飲んだ。でもその一杯がまわってしまって、お店から駅まで高瀬に腕を引いてもらうはめになった。
「ごめん、高瀬、ホームここでいいの?」
「家まで送るよ」
「えっ、いいよ、大丈夫」
「シマ、自分で思ってるよりフラフラだからな」
「……」
「終電までまだ余裕あるし、気にしなくていいから」
「部屋、散らかってるんだ…引っ越しの準備とか、で」
ホームには疎らに電車を待つ人が居て、夏の夜独特のむわりとした感触が半袖の腕を撫でた。
「ほんとに、実家帰るんだ」
「そんな嘘、付かないよ」
「……なんで帰んの?」
「笑えるんだけど、実は…」
三日前、夜中にすごい音がして目を覚ました。原因は隣の部屋のカップルが喧嘩して壁をぶち抜いた、というもの。もともと古いアパートで近いうちに取り壊すみたいな話も聞いていた。それが、早まったから早々に出ていくことになった、とそれだけのこと。
次の部屋を探したり引っ越しのこととか、管理人さんがいろいろしてくれると言っていたけど、今のところほど条件の良いところはないというのが現状。だから実家に帰って通ってもいいかなと、思っているわけで。
「あ、それで…さっき部屋探しの…」
そう、高瀬に声をかけられたのは不動産屋の前。急な引っ越しでバイトもどうしようか迷いながら、貼り出されたものを眺めていたのだ。
「部屋見つかるまで、うち来る?」
「……へ、」
「俺ルームシェアしてたんだけど、先週相手が出ててってさ、一人で家賃払ってくのもキツいしどうしようかなって思ってて」
それは、あまりにも突然で。
俺が返事をするのも忘れて高瀬を見つめているうちに電車がホームへ入ってきた。
大学近く、駅近く、なるべく広い部屋、そして安い家賃。それを叶えてくれたのが大学生には贅沢すぎる2DKの、けれど学生の家賃相場という格安の古いアパートだった。
高瀬に手を引かれて電車に乗り込み、座って一息付いてからやっと、高瀬の言っている意味を理解した。
「…ありがと。でも、俺荷物多いし、そんな迷惑は…」
荷物、というか本が多い。床が抜けそうで怖いなとは常々思うくらいに。そんな中で壁に穴が開いたなんてことがあっては、また同じようなところとなるとそれも心配なのだ。部屋を広くすれば家賃が上がるか駅から遠くなる。ならば本を手放すか実家に戻ればいい、その選択肢から選んだのが後者。
「俺は全然、迷惑じゃないよ。シマが、良ければ」
「……」
「一回、遊びに来なよ」
「、うん」
そのあと高瀬は本当にうちまで送ってくれて、けれどさすがに散らかっていてあげるわけにはいかなかったから、玄関で別れた。交換した連絡先は電話帳にきちんと“高瀬朔人”と入った。懐かしい文字の羅列に、俺はその夜懐かしい夢を見た。
──…
“僕は僕の正義のために”
その一文で終わった小説は、結末が書かれていなかった。
それはすん、と鼻の奥を一瞬痛くしてすぐに消えた。つまり、あまり好きな終わり方ではなかったのだ。最終的な結末を託された気がして。文字の世界に浸る以上、最後までそこに自分の意見を登場させたくはない、それが俺の考えだったから。書いた本人にはきちんと結末があって、それを書いたつもりでも、読み手に伝わらなければそれは消えてしまう。
「シマ?険しい顔してどったの」
「え、あ…何でもない」
「そ?それよりシマちゃん、今日放課後暇?」
「行かないよ」
「まだ何も言ってない」
「上原がその呼び方するときは良いことない」
昼休み開始五分、もう我慢できないと言いたげに口を開いた上原に一言添えて一瞥すると、盛大なため息が返ってきた。手にあった本は静かに閉じて、そっと机の中に押し込んだ。
「いいじゃん、たまには付き合ってよ。今日当番じゃないでしょ」
「なんで知ってるの」
「当番表見た」
「それストーカー」
上原は三年になってから突然茶色に染めた髪を豪快に掴み、「シマってクールだよね」となんの脈略もなく溢した。せっかくきちんと整えられていた髪が無造作に乱れ、けれどなかなかに男前な顔立ちのおかげでそれもまた似合っていた。
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