Tiger x Lotus | ナノ

07 

幻覚、だろうか…

「虎!」

目の前には何故か、びしょ濡れの蓮がいた。

薄れる意識の中でやっと思い出せたのは、今日は休みなのに朝方目が覚めたこと。昨夜、妙に寒いと感じて布団に潜り込んだこと。そのまま眠ってしまい、気づいたら今日の午前5時。それは恐ろしいくらい珍しいことで、もう一眠りしようと、時間を確認するために手にした携帯を枕元に投げ出した。

けれど、その時に感じた全身の倦怠感。ああ、頭もひどく痛む。寝足りない、そう思ってすぐに目を閉じた。学校もバイトもないのだ、こんなに早く起きる必要はない。

そのまますぐ眠りにつき、次目が覚めたのは昼少し前だった。意識を取り戻す途中から、体の異変に気づいて目を開くのを躊躇った。
ガンガンと痛む頭。揺れる脳内から、久しぶりのこの感覚の正体を引っ張り出そうとして、目を開く。風邪を引いた。ただ、それだけのことだと理解するのに時間はかからなかった。

「っ……て、ぇ…」

寝返りを打つのも許さない頭痛と全身のだるさ。別に、休みだから良いか。そう思うのに…いつもの風邪と明らかに違う感覚に、変な不安を覚えてしまった。そして、手は枕元を探る。

「あー……」

ぼんやりと滲む視界で画面を捉え、通話履歴の一番上にある名前に通話ボタンを押す。プルルと、何処か寂しげな音の後、愛しい人の声が耳に届いた。

「虎?」

なんでか、その声だけで驚くほど安心している自分がいて…風邪を引くと気が弱くなる、妙に寂しくて甘えたくなる、という意味が理解できた。それはいつものような、醜い嫉妬や独占欲から来るものではなく、ただ側に居てほしいという、純粋な気持ちだ。けれど、その向こうで「蓮くん?」と問うた甘い声に一気に現実に引き戻される。僅かに感じた安心感を奪われた、そんな感覚だった。
ああ、今日は土曜日…蓮は幼馴染みとデートの約束をしていた。

「あー…悪い、じゃあ…」

ならばこんな電話は意味がない。蓮は絶対に来ない。そう考えただけで頭痛が余計に酷くなった。とりあえず風邪薬を取りに行こうと体を起こせば信じられないほどの目眩に襲われ、結局ベッドを降りてすぐ諦めてしまった。もう何もかもが面倒で、自力じゃ動くことも出来そうにない。

「……れ、ん…」

無意識に名前を呼んでいた。
来るはずない。頭では分かっていても、何処かで期待している自分がいる。ベッドに背を預けて座り込み、何もない天井を仰いだ。霞んでいくそこに、ただ蓮に会いたいと願いながら。


「虎!!」

それからどれだけ経ったのか。名前を呼ばれて目を開くと、そこには頭からズボンの裾まで、びしょ濡れの蓮が居た。

「虎っ?大丈夫?とら─」

残酷な夢だ。しかも本当に、蓮の体は濡れている。おまけに生々しい触り心地。なんて呑気なことを思いながら、重い腕を蓮に伸ばして抱き寄せた。

「虎?」

「……んだよ、この夢…ムカつく……」

「…虎、意識ある?立てる?」

なんで、濡れているのか。濡れているせいか、やたら蓮の匂いが強く鼻孔を擽る。夢で良い、もっと触れたい。

「れ、ん」

「ちょ、と…んぅ……」

柔らかい唇の感触、生暖かい口内、ざらついた舌、綺麗に並ぶ形の良い歯。これは、夢だろうか…
くちゅくちゅと響く卑猥な音。それに耳をすまそうとしてやっと気づいた。夢の中からではなく、実際に聞こえている。

「と、ら…だめ…」

胸に感じた小さな抵抗に、俺はやっと状況を理解した。そして 理解すると同時に蓮の体を解放した。

「……蓮? 」

「目、覚めた?…よか、った…」

夢、じゃない。
安堵の息をついた彼に、俺は思わず眉を寄せた。蓮のせいで自分まで濡れてしまったことも、急な展開に興奮して頭の痛みが増したことも、今はどうでもいい。

「…なんで…… お前、今日…」

来て欲しかった。でも、どうして来たんだと怒りたかった。期待してしまうから…他の人との約束を投げ出して…しかも麗の…ここに来てくれたのか、と。

「うん、雨…降ってきて…それに、虎が風邪で僕に連絡してくるなんて、初めてだったから、心配で」

「…心配?」

「心配だよ」

自分も蓮も口を閉じたところでやっと、外の音に気づいた。雨の音、そして小さく揺れる窓の音。かなり降っているらしい。

「よかった、来て。熱もかなりありそうだし、顔色もよくない。何か食べた?薬飲むにも空きっ腹じゃダメだからね。あ、あと、虎も濡れちゃったから着替えて」

蓮の方が濡れてるのに…家はすぐ隣。着替えるために帰ることもしないで、雨の中ここへ真っ直ぐ来てくれたのだろうか。その時間さえも惜しいと感じたのだろうか。

「着替えたら大人しく寝てて。僕、何か食べるもの作るから。何か、食べれそうなものある?」

だとしたら嬉しい。素直に。けれど勘違いしてしまう。それでももう一度、今度は本物の蓮だと確認して抱き締めた。その体は、走ってきたからか濡れた服の下の肌が僅かに熱を帯びていて、 息も上がっていて、 ああ、蓮だ、と思った。
足を投げ出して座り込んでいた自分の上に蓮を抱きすくめ、痛いと言われるくらい腕に力を込めた。

「と…ら?」

閉め切ったカーテンの所為か、室内は薄暗い。その中で蓮の目を見つけ、ガンガンと痛み、ゆらりと揺れる脳内で自分の気持ちを処理しようと頭を働かせた。

「……来ないと、思った」

「え?」

ぎゅうっと、音がする。
俺が蓮を抱き締める音、蓮が俺の背中に手を回して服を握りしめた音。そんな些細な音が、妙に鼓膜を大きく揺らした気がした。

こんなに酷い風邪は、初めてだ。

「虎…意識、ある?」

思いしらされた。

「ん」

俺はこんなに、蓮を必要としている。欲だけでなく、本能的にだけでなく。愛しくて、たまらないのだ。

「良かった。…蓮……」

“俺から離れないで”

言えなかった言葉は自分の胸の中。


苦しくなった、胸を刺したいと思った。
(こんなに大事な人を、縛るのか)
(それが俺の、蓮の、幸せ?)




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