06
その日は朝から曇っていた。
「蓮くん!」
聞きなれた声に振り返れば、支度を終えた麗が姿を現した。“幼馴染み”の女の子、が。
「お待たせ」
満面の笑みと、華奢な手が僕を捕まえた。
麗は僕を好きだという。付き合えなくていいから、側に居ることは許して、なんてずるいことを言うのだ。たぶん、僕が彼女を妹のようにしか思っていないことを分かっているのだ。そして僕が突き放せない性格であることも。だから、終わりの来ない関係でいたい、と。
「ん〜寒いね」
季節はもう11月で、風は冷たくなり始めていた。僕らは電車で三駅のところにある映画館を目指して、最寄りの駅へと足を急がせた。
「風邪ひかないようにね」
「大丈夫」
「受験生なんだから」
「蓮くんと同じ高校いきたかったな〜」
入退院を繰り返している彼女は席日数が足りず、僕と同じ高校を受験することは出来ないらしい。それを、彼女はとても悲しんでいた。
「虎くんが羨ましい」
「え?」
「ずーっと同じクラスだし、行きも帰りも一緒だし…」
ずっとじゃないよ、夜出掛けていく虎を、僕は知っているから。とも言えず、曖昧な笑いを返すしか出来なかった。麗の息抜きの為に映画を見に出掛けるんだ。余計なことは考えさせたくない。そう思った矢先…
『ヴーヴー』
震えたのは僕の携帯で、表示された名前に背中がヒヤリとした。
「ちょっと、ごめん。……もしもし、虎?」
盗聴器でも付けられているんじゃないかと思ったからだ。でも、どうやらそれは関係ないようで、虎は小さな声で「れん」と、僕の名前を呼んだ。
「どうしたの?」
いつもと違う。
いつも以上に気だるそうに、そしてしんどそうに唸っている。
「虎?」
思わず止まってしまった足に、麗が振り返る。
「……頭、痛い」
「頭?風邪ひいたの?」
「……さあ…」
冗談ではなく、本気でしんどそうに喋る彼。不安の色が顔に出てしまったのか、麗まで眉を下げてしまっていた。
「蓮くん?」
「………ああ、悪い…今日、お前…」
麗の声が聞こえたのか、低かった声のトーンが更に下がる。虎がこんな風に弱るのは珍しい気がする。風邪は引いても、だからと言って僕を頼っては来ない。ほっとけば治るからと病院に行かないことも多い。
「虎?大丈夫?」
「……寝てれば治る。悪かった、じゃあ…」
それは躊躇いもなく、ぶつりと切られてしまった。それとほぼ同時に、機嫌の悪かった空が、ついに泣き出した。
「雨…?麗、一旦帰ろう。傘、取ってこないと。駅に行く前に濡れる」
「や…いや!」
振りだした雨は、着実に強まっていく。本当に、これではびしょ濡れになってしまうだろう。
「一旦帰って、着替えてから傘持って出直そう」
そう話している間にも、雨は降り続く。珍しく、麗は俯いて僕に反抗した。名前を呼んでもこっちを見ない。視界を遮るように、遠慮もなく落ちてくる滴の隙間からそれを見つめると、「着替えたら、意味ない」と、震えた声が聞こえた。
「え?」
「それに、今戻ったら映画間に合わないし…次のじゃ、門限までに帰ってこれない…」
ああ、そうだった。
麗の両親はかなりの心配性で、門限はきちんと守らないと後から怖いことになる。僕が一緒だからと言っても恐らく意味はない。それに空気が冷え、日が短くなってきたこの季節、それはさらに厳しくなっているはずなのだ。
「風邪ひいたらどうするの」
僕は上着を麗の頭に被せ、肩を掴んで歩き出した。今来た道を、戻る。
「ほら、一旦帰ろう。映画はまた─」
「ずるいよ…ずるい。虎くん虎くんって…虎くんのことばっかり…今帰ったら、虎くんのとこ行くんでしょ…?」
麗は目に涙を浮かべて、僕を睨んだ。睨む、というよりは見つめられた、が正しいだろうか。
「今日はわたしが約束してたのに…」
それから麗は家につくまで口を開かなかった。華奢な肩を小刻みに震わせて、家の前まで送り届けところで、雨か涙かわからない、濡れた顔が僕を見上げた。
「ごめんね、蓮くん。さっき言ったこと、忘れて…」
寒い。頭の先から、靴の中まで濡れ始めていた。僕は、彼女の傷ついた顔に傷ついていて。決して、彼女の感情に傷つけられたわけではない。
「…勉強!付き合ってね!!ありがとう、また」
麗が消えたドアを見つめながら、僕は気づいてしまった。この足で虎の家に行く。それは決定事項だけど、もし、雨が降ってこなかったら…もし、傘を持って出てきていたら、僕は、どうしていたのだろうか、と。
やみそうにない雨を見上げて、問うてみても答えは見えない。麗との約束をすっぽかして、虎のところに行く勇気はあっただろうか。
僕の足は勝手に歩く速度をあげ、走り出していた。会いたい、と思ったのだ。虎に。
余計な感情を取っ払い、純粋に。僕を頼ってくれた彼に。利己的で自分勝手で、普段は他人のことなんて考えもしない彼が、弱気になって電話を切るから。
走り出した僕に、雨は容赦なく降りつけた。
この雨が、全部流してくれればいいのに
(気づいてほしい)
(何より大切なものに)
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