Tiger x Lotus | ナノ

05 

夏休み初日、俺と蓮は朝早く家を出た。

「虎、鞄持つよ」

家の最寄り駅から電車に乗り新幹線に乗り換える。朝早くてだるい、眠い、面倒だ、そんな感情は一切なく、蓮の荷物まで手にして、俺は歩いていた。

「いい、持つから」

「ダメ、持てるから」

まださほど暑くはなっていないが、新幹線を降りてホテルまで歩くには充分な暑さで背中に汗が滲んだ。いや、充分暑いのかもしれないが、いつもより遥かに多い緑に、それを感じなかったのだろう。

「いいって」

着替えしか入っていない少し大きめの鞄は軽く、俺も同じようなもので。家を出る直前に、一つのスーツケースに二人分のそれを押し込んだ。だから荷物は一つしかない。財布やチケット、カメラや飲み物が入った手持ちの鞄は蓮が背負うリュックだけ。それを持たせているのだから、これは当然ではないだろうか。

「そんなの虎が疲れるよ」

「大丈夫。それにこれは─」

蓮への誕生日プレゼントだから、と続く言葉を飲み込んで、たどり着いたホテルに足を止めた。ここかと問うた蓮の手を引き、まだチェックインには早いため荷物を預けてホテルを出た。

「ここからバスに乗るの?」

「ああ」

「お昼、何食べようね」

「何が食べたい?」

柔らかく微笑む蓮はいつも通りで、俺は自分の内に気付かれないように表情を繕った。もっとも、バレたところで何も問題はないのだけれど。ただ、最初からこうでは残りの時間はどうするんだという話な訳で。
隠すためにもう一度キスをして手をとり、財布と携帯を押し込んだリュックを蓮から浚ってバス停へ向かう。会場は少しだけ離れた場所で、そこまではバスに乗る。その間に二ヶ所あるステージのスケジュールを確認した。

到着すると、そこは既に人でごった返していた。はぐれてしまわないようしっかりと蓮の手を握れば、暑さに滲む汗で滑って離れそうになる。そもそもこんな人混みの中ではぐれてしまったら、もうここでは見つけられないだろう。携帯もまともに繋がらないし。蓮もそれに気づいたのか、はぐれたらバスを降りたところで落ち合おうと言った。

「メインステージの方、もう行っとくか」

「うん」

前の方はすでに人で埋まっていたが、まだステージがよく見える場所を取り、始まるのを待った。スタッフが何かしゃべっていたけれどよく聞こえず、その間にも人は集まってきていた。

じっとりとした空気が、じわりじわりと嫌な汗をかかせる。どこか湿気臭いようなそれに、もしかしたら雨が降るかもしれないと思った。雨が降る中びしょ濡れで楽しむのも夏フェスらしくて良いかもしれない。
人の波に押さた蓮はすでに何度目かであるのに律儀に謝っている。それに雨の予感を忘れて、顔を覗き込んだ。

「大丈夫か」

「うん、ありがとう」

繋いでいた手を離し、彼の腰を支えた。これだけ人で隙間を埋められれば見えやしないだろう。普段はあまりできない人前でのこういう行為。蓮ははにかんで俺を見たあと、そろそろだねと言ってステージを見上げた。

言葉通り、それからすぐライブが始まった。

騒がしい音楽と共にあがった歓声と悲鳴。短いイントロで、ああこのバンドで蓮が一番すきな曲だなと気づく。

「I'll devote my body and soul to you. Just for you」

囁くように歌い始めたボーカルが歌詞を紡いでいく。高校に入ってすぐの頃、俺は音の流れてこないヘッドホンで耳を塞いでいた。雑音をシャットダウン出来れば何でもよくて。けれどいつのまにかそこからは音楽が流れるようになっていた。空の小さな機器に、蓮のお気に入りが増えていく。

これは、この曲は、蓮が一番最初に入れてくれた曲だ。恋の歌と呼ぶには重くて、家族の歌と呼ぶには色っぽくて、夢の歌と呼ぶには足りないものが多い。英語だけの歌詞の中、俺はそれを、人生の歌だと受け取っていた。

“私の全てをあなたに捧げよう。あなたの為だけに”

一曲目が終わり拍手がわいた。そこからのことは、熱気と興奮にのまれてしまってよく覚えていない。数回ステージ間を移動したけれど蓮を見失うことはなかった。暑さの中、僅かに感じた雨の予感を思いだし、それからすぐに雨は降りだした。リュックの中にカッパがあるのは知っていたが、一気に降りだした雨はすでに全身を濡らしていた。

周りも、特に気にしている様子はない。ステージには屋根があるし、もうしばらくは大丈夫だろう。全身びしょ濡れでも、この熱気で寒さを感じることはなさそうだ。
蓮が隣にいるだけで、俺は違う世界にいるみたいだと思った。自分が自分じゃないような、けれどこれが本当の自分のような、そんな理解できない感覚。

「雨がなんだー!」

ステージに立つ一人が、音の割れ始めたマイクを捨てて叫んだ。きっともう少し後ろにいたら聞こえなかっただろう。その男はスタッフから別のマイクを受け取り、しかしそれは歌う用のものではなかった。それでも歌は続いた。

「えー、最後は、俺が、メンバーに、そしてここにいるみんなに、込めて作った曲を、歌います」

“最後”という単語に、ああ、もう終わりなのかと落胆する自分がいた。ここへ来てすでに何時間と経っているのに。

I would like to protect what was gained
Cannot be thrown away
聞こえるだろうか崩れゆく世界の音が
その果てに何が残るのかな


また、音が割れ始めていた。聞き取れないところが多く、けれど聞きなれたその歌は抵抗なく自分の中へと浸透していく。

待っている、君が居たんだ
The important thing which I have dropped
Do you remember me?


最後の歌詞がフェードアウトしないで、ぷつりと途絶える。静寂に包まれたそこで、けれど雨は振り続いていた。すぐに沸いたアンコールの声に誰もいなくなったステージにまた、その顔が見えた。アンコールは二曲。それが終わり、待ち望んでいた夏フェスは終わりを告げた。

終わった余韻に浸る暇もなく、俺と蓮はぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られてホテルへと戻った。預けていた荷物を受け取り、チェックインを済ませて部屋に入ると修学旅行で初日に泊まったような綺麗な部屋だった。白とブラウンで統一された、蓮が好きそうな雰囲気の。

部屋に入ってすぐ服を脱ぎ、ユニットバスではない風呂に蓮がお湯をためてくれた。その間にスーツケースを開けて中から着替えを取り出す。見慣れないカーペットの上に座り込む自分に、ああ、二人きりなのだと急に実感した。新幹線に乗っても、遠ざかる町を眺めても感じなかったそれが、今じわりと生まれたのだ。

熱気から解放されたびしょ濡れの体は、急速に冷えて嫌な感覚を残していくのに。
都会の喧騒も、テレビの音も、何も聞こえない。窓を開けたらセミの声が聞こえるだろうか。きっと温度も少し下がっているだろう。

着替えを引っ張り出して出来たスペースに脱いだシャツとズボンをよく絞ってから用意していた袋に入れて押し込む。


「虎」

「ん?」

「ありがとうね」

浴室のドアから顔だけを出してそう微笑んだ蓮は「もうすぐたまるよ」と続けた。それがたまらなく可愛くて、俺は反射的に蓮に歩み寄っていた。
同じようにパンツ一枚の蓮が、気を遣ってか俺に先に入るよう促す。

「蓮」

出ていこうとした蓮の手を捕まえ、自分へと引き寄せる。きょとんと俺を見上げる蓮の額にキスをして、するりと下着を脱がせた。濡れたそれは窮屈そうに床へ落ち、胸に小さな抵抗が当てられた。一緒に風呂に入る、という状況を理解したんだろう。頬を赤く染めて、俺の胸を押し退けた蓮。嫌がられるだろうなとは思っていたが、そんな予想に反して、蓮は俺の下着に手をかけた。

それもまた同じように、くるくると縮まりながら床へ落ちた。

「…お湯、もういいかな」

男二人で浸かるには少しきついけれど、おかげでお湯は少しで済む。髪と体を洗ったあと軽くシャワーを浴びて、二人で向き合うように熱いお湯に体を沈めた。

白い湯気の中、何度も視線を絡めたり離したりして、触れたり離れたりして、不意打ちのキスを落としたりして、違う意味で火照ってきた体をお湯から引き上げた。

「温まった?」

「ああ」

良かったと柔らかく笑った蓮を引っ張り、両腕で抱き上げた。驚きに言葉を失ったのか、素っ裸だというのに蓮は抵抗もしない。風邪を引くといけないなと思い、豊富に用意されている部屋のタオルを一枚、持ってからベッドへと蓮を下ろした。

「っと」

濡れた髪がシーツにシミを作り、二人分の重さを受けたベッドが軋む。俺はそっと蓮に覆い被さり、手を握って触れるだけのキスをした。
もうすでに興奮している。

「虎、乾かさない、と」

状況を理解していながらそう言うのは、せめてもの理性だろうか。その間にもブラウンのシーツにシミが広がっていく。
ツインの部屋だからベッドは二つある。寝るときはもう片方に移動すればいい。今から暑くなることをするのだ、濡れていてもあまり関係ないだろう。冷えたらまた、風呂に浸かればいい。いろんなことを考えながら、それでも同じように欲に濡れた目に、どうでもよくなる。

「蓮」

自分の髪から落ちる滴が、ぽとりぽとりと蓮を濡らす。いつも以上に色気を醸し出す蓮を見下ろし、ゆっくりと首へ唇を寄せる。嗅ぎ慣れないシャンプーやボディソープの匂いが鼻一杯に広がり、少しだけ不安になった。きっと俺も同じ匂いなのに。

「んっ」

形よく浮き出た鎖骨に噛みつき、胸の突起へと舌を這わせた。ぷくりと固くなったそれを舌で押し潰し、もう片方は指で触る。それに反応してぴくりと小さく跳ねる蓮の体が、紅潮していく。

「と、ら…」

「ん?」

「そこ、ばっかり…やめて」

お互い裸なのだ。お互いが下半身の熱さに気づいている。

「じゃあ、どこ、触ってほしい?」

耳元で問いながらも手は未だ蓮の胸。
羞恥に潤んだ瞳が数秒前より確かに、静かに、欲情していた。

「蓮」

好きで、大事すぎて、怖いと思った。
もう何度もそう思ったのに少しも不安はなくならない。むしろ大きくなっていく。少なくとも今は俺が蓮の一番近くにいるのに、もっと近づきたくて、本当に誰にも蓮を見てほしくない、自分だけのものになってほしいと願っている。
何度も何度もそのことで頭が一杯になる。
幸せな今だけを見ることができない。少しのことで崩れてしまいそうなほど脆くて、そのくせ俺は蓮を離せないのだ。

虎がまた、泣きそうな声で僕を呼ぶ
ぽとりぽとりと落ちてくる水滴までも
逃げないように抱き締めたいと思った


「抱いていいか」

何故そんなことを聞いたのか。自分でもわからなくて、でもそこまではっきり問うたのは初めてだった。

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