01
三泊四日の修学旅行、行き先は北海道だ。梅雨の続く地元を離れた僕らは無事肌、寒い北海道に辿り着いた。
「ホテルめっちゃ綺麗だな」
三泊とも違うホテルに泊まるらしく、初日の今日はお洒落なリゾートホテルチックな場所だった。四日分の着替えと必要なものを詰め込んだキャリーバックを引き摺れば、隣から漏れてきた大きなあくび。
前期中間テストでかなり順位が上がり、先生達に褒められた彼。今回はそんなに、一緒に勉強が出来なかったのに。ちゃんと自分だけでやれたらしく。それはすごく嬉しいのに、何故だか寂しくもなった。
虎は自分で何だって出来る。けれど僕に甘えてくれる。それを苦に思ったことはない…だからなのかもしれない。僕の知らないところで変わっていくのが怖い。僕の知らないところができてしまうのが嫌だから。
「蓮?」
それぞれの部屋へ入るようにと促されたのに、立ち止まったままの僕を覗き込んだ顔。ギリギリまで赤点解消と闘っていた湯井だった。なんとか自由を手にした彼は、晴れ晴れとした顔で僕のスーツケースをひいてくれた。
「行こうぜ行こうぜ」
「ちっ」
「ひ、え?何々、虎?」
「俺が持つ。てかお前は別の部屋行け」
「え!?なんでそういうこと言うかな」
まだ眠そうな目をした虎は、湯井の手から僕のそれを奪い取った。恐らくどちらもそれが持ちたいわけではないだろうに、取られ取り返しを数回繰り返す二人が子供みたいで口元が緩んでしまった。
「自分で持つよ」
「いや、いいって。ここまで来たらなんか悔しいし」
修学旅行、だ。今日は珍しく虎が動いている。だるかったら周りなんてお手構いなしで我が道を行くのに。こういう行事だって、毎回つまらなさそうな顔をしているのに。今日は表情を変えている。それは部屋に入ってからも変わらなず、僕と虎と湯井は二つしかないベッドで誰が寝るかじゃんけんをした。ツインルームらしいそこには、上等なベッドでが二つと、簡易ベッドが一つ。負けたのは僕だったけれど、虎がここで寝ればいいと獲得したベッドを軽く叩いた。
湯井は「暑苦しいからやめろよー」と笑っていただけ。けれどその日は本当に、二人で寝ることになるのだった。
「で、湯井逃げそびれたのか」
ホテルのレストランで食事を済ませてからは自由時間で、それぞれ他の部屋へ行ったりホテル内のお土産さんに行ったりした。十時に担任が点呼と見回りにやってくる為、皆それまでに解散した。はずだった。
「お風呂入ってる体で行こっか」
既に点呼は始まっている。今廊下を彷徨くのは危険だ。これが終わればまた部屋を出られたのに。もっとも、予定外の見張りが居なければの話だけど。それから十分もしないうちに生駒先生が来て、言い訳を疑うことなく去っていった。
「……あ、お風呂、虎、先入る?」
テレビもつけていない室内は妙に静かで、突き当たり一面の窓には自分と虎が反射していた。二人きりになるのなんて慣れているのに…妙に心臓の動きが早い。
「後でいい。蓮先に入ってこれば」
「あ、うん、ありがと」
このまま湯井が戻ってこなかったら…そう考えたら余計に顔が熱くなって、逃げるように浴室に身を滑り込ませた。考えてみれば、こうして家以外の場所で二人きりで夜を迎えるのは初めてだった。だから緊張しているのだろうか。いつもと違うシャンプーや入浴剤の匂いにまで何故かドキドキして、僕はしばらくお湯に浸かっていた。
「虎、入る?」
まだ時間は十一時前。
寝ているなんて疑いもせずに浴室を出れば、既に電気は消えていて。カーテンもしっかり閉められていた。虎が勝ち取った方のベッドはぺっちゃんこで、代わりに湯井の方のベッドの上が膨らんでいた。
「虎?」
物音ひとつしない。ただ内線電話の横においた携帯がチカチカと光っていて、それが妙に目立った。数回の着信は全て湯井からで、諦めたのかメールが最後の通知だった。
部屋を出ようとしたところで見張りが居たらしく、様子を見て戻るとの旨が記してあった。部屋を出るときに電話するから気づいてよ、と付け加えて。
ピクリとも動かない布団の中の塊。しばらく見つめていたら、視線に気づいたのかもぞもぞとそれが動いた。
「と─」
「明日、朝シャワー浴びる」
「あ、うん…もう、寝る?」
「んん」
「そ、っか。おやすみ」
譲ってくれたのであろうベッドに潜り込み、せっかく修学旅行で一番思い出になる夜なのに寝るのはもったいないな、なんて思った。それから、布団は上等そうなのに、何故か寒さを感じた。六月も半ばになるというのに、地域によってこんなにも温度や気候に違いがあるのかと驚くほどに。
いつもと違う匂いに違う布団、極めつけに寒いときては眠れそうにない。何度も寝返りを打っては、体にしっくり来る場所を探す。音のない部屋の中で、その衣擦れの音が響いた。
「…蓮?」
「ごめ、起こしちゃった?」
「いや。寒いのか」
「少し…」
暗闇の中、ぼんやりと浮かぶベッドの上の大きなシルエット。寝ていると思っていたその声は、想像よりずっとしっかりしたものだった。なんだろう、この孤独感は。このなんとも言えない喪失感は。いつもすぐ隣にある温もりが、遠い。
「暖房いれるか?」
持ち上げられたらしい彼の上半身。本当にシルエットしか見えなくて。それは本当に虎なんだろうかと不安にまでなってしまった。
「ううん、大丈夫…」
ほんの少し前まですごく楽しくて嬉しかったのに。なんだろう、この…
「…蓮?」
虎の低い声、ギシリと音をたてたベッド。
少しだけ暗さに慣れた目が、伸びてきた黒い腕を見つけた。いつもより温度の高い掌が、そっと額に置かれ、その手の感触に安堵した。
「ごめん、大丈夫だよ。薄着過ぎただけ」
表情が見えないのが嫌だったけど、僕の今の顔を見られるのはもっと嫌だと思った。ならばこの暗さは運が良かったのだろうか。
虎の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと力を込めた。湯井が戻った来たら寝る場所がないと嘆くかもしれないな…だから、そうだ…
「虎、一緒に…」
情けない声だった。聞き取れないほど小さな声だったかもしれない。けれど虎の手は離れていかない。曖昧な僕の言葉を、理解できたのだろうか。だとしたら嬉しいけれど。
「っ、ごめん、あえっと。平気、だから─」
「馬鹿」
黒い大きな影が近づき、虎を掴む僕の手の甲に柔らかな感触。それが唇だと分かって、顔が熱くなるのを感じた。
もう一度、虎の薄い唇が甲をなぞる。そのまま虎の手が頬へと滑り、自然と唇が重なった。触れるだけのキス。啄みもしない、本当に触れるだけのそれに、すごくドキドキした。
「……虎」
「ん?」
お互いの息がかかるほど近くに顔がある。
妙に熱くなってしまった顔と、うるさい心臓の音まで伝わってしまいそうだ。
「何かあった?」
「何もない、けど」
「そ、っか…」
何もない、か。
「ただ」
胸が、苦しい。理由なんてわからない。
「我慢、できそうになかった、から」
「……え?」
反射的に出た声を遮るように、額に落とされたキス。名残惜しそうにちゅっと音をたてて離れた虎の唇。
「蓮が風呂上がる前に、寝ようと思った」
「え、どうし─」
「盛りたくない」
意味を理解出来ないでいたら、もう一度唇が重ねされた。
「蓮と二人きりなんて、俺は平常心で居られない」
「っ…」
「別に、我慢しなくても」
「ダメだ。蓮に無理させられない」
「な、…だ」
「ん?」
ベッドサイドに腰かけて頭を撫でてくれる虎。その手を引っ張って、背中にしがみついた。
「良かった」
温かい。いつもは僕の方が、温かいはずなのに。
「虎に背中向けられて、不安になった」
「そんなつもり─」
情けないなと思いながらも、そういえばテストの少し前から今日まで体を重ねていないなと思い出してまた胸が、きゅっとなった。テストまでお互いバイトを休んでいたし、すぐに修学旅行も控えていた為に、テストが終わってから昨日までほぼ毎日バイトだった 。それが理由だというのは分かっていたけれど。
「、れん」
こうして抱き締めてしまうとダメだ。いろんなものが内側から溢れ出てきて、けれど広い背中と温かい胸の安心感にそれは溶かされる。お風呂上がりだというのに冷えてしまった体が、温度を取り戻していく。
「虎、テスト前から…」
校長室に呼び出された日からだろうか。
「何だか変わった気がしてたんだ。僕の知らない虎が、怖かった」
ああ、だから余計に、こんなにも不安だったのかな。シャワーも浴びていない虎からは、彼自身の匂いと体に染み込んでしまった僅かな香水の匂いがした。僕の、大好きな匂い。満たされていく。
「悪い…」
体が離され、虎の目が僕を捉えた。
はっきりとは見えなくても、さっきよりずっとよく見える。
「ほんとに、そんなつもりはなかった」
「…僕こそ、ごめん。変なこと言って…」
「あと、それだけじゃない」
きっと真剣な目をしてる。切れ長の目に僕が映されている。またベッドのスプリングが苦しそうに軋み、でも確かに虎の声は聞こえる。
「蓮の隣に居たかった」
「へ…な、に?」
「俺が蓮の恥にならないように、誰にも文句なんて言わせないように、なりたかった」
どくりと脈打った心臓は、全身を侵略するみたいに激しい鼓動を続ける。
「そ、んなの…」
「言うつもりなんてなかった。でも、それで蓮を不安にさせるのはもっと嫌だから」
どうしてそんな事を思ったのか、深く考えなくたって分かった。分かったことが嫌だった。僕は気にしてなんていなかったけれど、むしろ努力をしなくちゃいけないのは僕の方なんじゃないか。
「蓮を、大事にしたい。俺の所為で、嫌な思いはさせたくない」
言い聞かせるみたいな優しい口調に、涙が出そうになった。そんなの改めて言われなくたって、いつも感じていたのに。虎がそれを言葉にしたということは、それだけ虎も不安だったのだろうか。
確かめる様に僕を抱き寄せた虎は、そのあと布団へと体を滑り込ませてきた。自分の部屋のベッドより少しだけ大きいそこは、けれど二人で横になるには少し窮屈だった。でも温かくて、何度か触れるだけの口付けを交わしているうちに意識が薄れていった。
僕は頼もしい腕に抱き締められて、瞼を下ろした。
例えば全てに意味があったとして
俺はその全てを分かってやれるだろうか
言わなければわからないこと。
僕らの間にある見えない溝は、いまだそこにある。けれど、無くならないと思っていたそれも、確実に埋められている。
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