Tiger x Lotus | ナノ

006 

彼を初めて見たとき、正直鳥肌がたった。

愛してるよ


名乗ってから見渡した教室には、二年ぶりの高校生の顔があった。
教師になって四年、そのうちの二年はこの現場から離れていた。たった二年で挫折し、二年間も休養を要してしまうほど、私は後悔や不安、そして恐怖に押し潰されてしまいそうだったのだ。
その重圧から解放され、こうして“代わり”としてやっと復帰した。そうして副担任を任されたクラスは二年一組。事前に個人写真の貼られた名簿は渡されていたが、ぐるりと見渡してみるとやはり顔は少し違う。表情や髪型が違うだけで、記憶と一致しない顔がいくつかあった。

その僅かな違いを修正していきながら視線を巡らせる途中、ただ一人、視線を止めずにはいられない生徒がいた。

“園村蓮”

やはり写真とは少し違う。優しい目付きと着崩されていない制服はそのままに、写真よりずっと綺麗に笑っていた彼だ。

「はい、じゃあ朝のショート終わり」

ここまでだとは思わなかった。
ここまで、鼓動が加速し、鳥肌がたつほどだとは。

槙ちゃん、キャラメルあげる


その日、進級してすぐに書かれた進路調査表を生駒先生に見せてもらった。園村蓮の紙には、目を疑うような大学名が書かれており、そう思ったのは彼のことがどうしても気になって、事前にリサーチしていたからだ。部活には所属していないけれど、勉強熱心で感心するほど周りからの信頼は厚い。もちろんその“気になる”というのは、“一生徒”として…いや、それだけじゃなかったのかもしれない…

槙ちゃん、明日は雨だよ


園村蓮の成績はこのクラスで三番。分かってはいても、今時の若者という顔をしておきながら聡明で、柔らかい空気を纏う。その少しの違和感に、私はどこか懐かしさを感じていた。

そして何より驚いたのが、園村蓮の隣にいる人物。園村蓮とは正反対の、野良猫の様な男だ。それに、私は吐き気を催すほど嫌悪感を抱いた。

「愛敬くんとは、友達なのかしら」と、気づけば本人にそう問うているほど。けれどその問いに、優しいはずの彼の目には怒りが見え隠れしていて。それでもどうしても、私は伝えたかったのだ。

「釣り合わないと言っているの」

細められた目は、もう怒りを隠そうともしなかった。その目が、遠い日の記憶と重なった。


「まーきちゃん」

四年前教師になる夢を叶えた。そして三年前初めてのクラスを持った。担任という形で、三年一組の生徒を。その中に、その男子生徒はいた。

「槙ちゃん、槙ちゃん」

授業態度も良く、成績も学年上位。生活態度の問題もなく、リーダーシップもあった。明るくて誰からも信頼され、そして何より優しい人間だった。普段は教師に対してちゃん付けなどしない。でも唯一、放課後の私だけ、彼はそう呼んだ。

「新入部員七人も入ったよ!」

彼は、英会話クラブの部長だった。毎年入ってくる後輩は少なく、一ヶ月と経たないうちに幽霊部員と化す生徒もいるクラブ。けれど彼は部長を努め、こうして満足そうに笑う。

「今年のスピーチ大会は優勝するから、槙ちゃん応援してよ」

くしゃりと笑うその顔が、私は大好きで。

「はいはい、頑張って」

「もー槙ちゃーん。あーあ、槙ちゃんが英語の先生だったら良かったのに」

「英語は苦手なのよ。数式解く方が楽しいわ」

そして何より、彼だけだった。
身だしなみや授業態度についてきつく注意したり、冗談も言わない楽しくない授業をする私を、他の生徒たちは謙遜していた。こんな風に話しかけてくれるのは彼だけ…片岡恭我だけだった。

「じゃあ今年もテスト前に数学の勉強見てよ」

「はいはい、見てあげる」

真っ当に生きてきた自分にとって、可愛いと思うのは自分と同じ考えを持った生徒。だから、彼のことはすごく大切で、けれど彼の周りに居る人間のことは、そう思えなかった。それは教師として失格かもしれない。それでも私は、彼を特別視していた。

だから…

「先輩」

彼に出来た恋人が、憎かった。

「アキ」

一つ下の学年、華奢で小柄な“アキ”は秀でたものがあるわけではなく、勉強も運動も人並み…いや、人並み以下だったかもしれない。明らかに釣り合っていない、誰が見てもそう言うだろう。彼の特別になれた“アキ”は、周りからの執拗な嫌がらせに悩んでいた。私はそれを知っていて、目を逸らしていた。

けれど、下駄箱が汚されようと、上履きが捨てられようと、机に落書きされようと、教科書が切り刻まれようようと、暴力を振るわれようと、“アキ”は彼に告げ口などしなかった。

人間は汚い生き物だ。けれど、“アキ”が受けた仕打ちを汚いとは思わなかった。そう、私は当然だと、それ位のリスクを負うのは仕方がないと、そう思っていたから。片岡恭我はそんなことにも気づかず、何も変わらない生活を送った。そして事件が起きたのは、彼らが付き合いだした三ヶ月後のこと。夏休み明けの学校。

長期休暇の間も二人は愛し合っていた。久しぶりの学校でやはり“アキ”は陰湿な嫌がらせを受けた。そう、そんな、相も変わらない日。

「アキ!!」

彼のファンから暴行を受けていた“アキ”は、階段から突き落とされた…もっとも、突き落とされたという真実は明かされることなどなかったけれど…そこにたまたま現れた片岡恭我が“アキ”を庇い、頭を打って病院に運ばれた。“アキ”は落ちた時の怪我を負うことなく、その所為で嫌がらせはエスカレートした。

片岡はしばらく入院し、その間の“アキ”はたった一人、耐え難い苦痛を受け入れ、そして…

「アキが、死んだ?」

階段から落ちた二週間後のことだった。片岡が目を覚ました時には既に、恋人はこの世には居らず…彼はそのとき初めて知ったのだ。自分の所為で“アキ”が嫌がらせを受け、暴力を振るわれ、そしてそれを頑なに黙っていたことを。ズキズキと痛むのは頭なのに、胸が苦しく、締め付けられ、涙が止まらないと私に訴えた。そしてポツリと問うたのだ。

「槙ちゃんは、知ってた?…なんで…どうして、黙ってたんだよ」

僅かに言葉を荒くした彼に、私は素直な気持ちを述べた。

「仕方ながなかったのよ。貴方はスピーチ大会に受験に、忙しかったでしょう?心配をかけたくなかった気持ちだけはわかってあげて」

「そんなの…」

「貴方は将来有望な人間なの。こんなところで、躓かないでほしい。ね、分かって」

それが彼にとって、正しいことだと思ったから。でも、彼は違った。

「……なよ………ふざけるな!何が仕方がないだ、俺にとって一番大事なのはアキなのに。アキの為なら、俺の将来だって何だってくれてやるのに!!」

怒鳴ったのだ、私には到底理解できない言葉を紡ぎながら。

「何を馬鹿な…」

「なんで分からないんだよ!?可笑しいだろ……アキは、アキは…」

片岡が目を覚ますのが待てなかった“アキ”は、自ら学校の屋上から身を投げ出した。その情景を想像したのであろう彼は、血迷ったように腕から点滴の針を引き抜いた。

「なっ!ちょ…」

「アキは俺の所為で死んだ。俺が殺した。俺も死ぬ」

「馬鹿なこと言わないで!」

「馬鹿はどっちだ!教師なら…教師なら、生徒一人くらい守ってみろよ!!」

怒りに染まった瞳は、私を屈服させようとしているみたいだった。スリッパも履かずに病室を飛び出した彼は、絶対安静だというのに階段をかけ上がっていく。遠ざかる背中を必死で追い、私は絶望した。

“アキ、愛してる”

「待ちなさい!」

“槙ちゃん、明日は雨だって”

「片岡くん!!」

病人らしい白い服は風に靡き、ダークブラウンの髪が無造作に散り、柔らかく微笑みながらその体は宙に浮いた。そして、音もなく私の視界から消えた。私の世界から、消えた。

彼の最後の言葉は、私だけが聞いていた。
“愛している”それだけの感情が、彼らの人生を終わらせた。馬鹿馬鹿しい。けれど私はショックから立ち直ることが出来ず。だってそれは当然だろう。自分の教え子が目の前で…飛び降りて死んだのだから。このまま、深い深い闇に溶けてしまえばいいとさえ思っていた。

片岡が最後に見せた表情。怒りの浮かぶ瞳。同じことを繰り返さない為にも、早いうちに園村蓮から愛嬌虎士を引き離したかった。まだ若い彼らの、将来を奪わない為にも。あの頃、私だけが特別視しているんだろうかと期待していたのかもしれない。だから私も、嫉妬した。私を特別視してくれているんじゃないかと、一人ぼっちの私に与えられた光。だから余計に眩しく見えた光。

「槙先生の考えや言いたいことはよく分かりました。でも、それに従うつもりはありません。言いたいことはそれだけですか」

似ているから放っておけない。
片岡恭我と“アキ”もそうだったから。

「男同士で、どうやって幸せになるのよ」

呟きは園村蓮が扉を閉めた音に消され、大嫌いな種類の人間を、私は認めざるを得なくなるなんて考えてもいなかった。

あの日空の青に溶けていった彼に
私はきっと、一生縛られるのだろう


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