04
「……これは錯覚ですか」
I'll devote my body and soul to you.
Just for you.
I'll devote my body and soul to you.
Just for you.イヤホンから聞こえる音が遮られた。
テスト前だからと一応休みをとっておいたバイト。いつもはテスト前に無理矢理頭に詰め込む単語や数式を、今はしっかり理解しようと教科書を睨む。そんな俺の横で信じられないと言うように呟いたのは、忌々しすぎるあの男の声だった。
「先輩、蓮さんに捨てられちゃったとか?」
「……」
蓮はカウンターの向こうで図書委員の仕事をしている。そんな彼に聞こえないように、声は小さく続ける。俺は仕方なくイヤホンを外した。
「今さら釣り合おうとしたってもう遅いですよ」
そりゃあ、今の俺の状況は信じられないかもしれない。けれど何を知っているんだと言いたくなって、「そんな問題も解けないんですか、先輩」の言葉に視線をあげる。案の定、そこには幾瀬准の顔。相も変わらず、懲りもせず、蓮が図書当番の放課後に現れる厄介者だ。
「静かにしろ」
蓮にふられてから短くなった髪の毛が、窓から吹き込んだ風に揺れた。蓮によく似ていた、いや、似せていたそれを切ったということは幾瀬なりのけじめなんだろう。まあ幾瀬自身、髪を切ったくらいで何かが変わるとは思っていないだろうが。
「じゃあ隣失礼しますね」
図々しく俺の隣に腰を下ろした幾瀬は、頬杖をついて俺を眺め始めた。
「…なんだ」
「いえ、異様な光景だな、と思ってただけです」
ムカつく。それを言うのさえ面倒だというのに…黙って見ているだけならこんなに近寄らなくて良い。もっとも、遠くから見られていたら、それはそれで苛つくけれど。
「それに、その行為が蓮さんの為だったら、って。これ以上蓮さんに近づいてどうしたいんだろうって」
「は?」
「なんて言うか…僕はまだ蓮さんのことを好きだから、先輩は今でも邪魔なだけなんですよね。もし二人の間に亀裂が入ったら、喜んでしまうくらいには」
口元を緩める話ではないだろうに、幾瀬は表情を変えずに続ける。
「だから、それくらい二人の間には入れないんだって。僕の考えてることは以上です。それより」
何かを思い出したように漏れた声の後、今まで以上に近い位置に幾瀬の顔がきていた。
「昨日は大丈夫だったんですか」
「…は?」
「喫煙疑惑、かけられてたんじゃないんですか?」
「…なんで知ってるんだよ」
「あ、今僕が犯人だとか思いましたよね。残念ながら違いますよ」
俺が声を発する前に、幾瀬は一人で話を進める。自ら彼に話をするのは面倒だから、それはそれでいいのだけど。聞くのだってやっぱり面倒だ。
「僕はまだ蓮さんが好きです。あくまで純粋に。蓮さんが悲しむようなことを、今はしようと思いませんし。またちょっかいだして、二人の仲をさらに深めるようなこともしたくありませんしね」
カタン、と小さな音をたてて机に置かれた本は恐らく蓮に進められたものだろう。見たことがある表紙だった。
「先輩、槙先生に嫌われてますよね」
「……槙?」
「まあ、先生がどうこうって訳じゃないと思いますけど…あの人、多分蓮さんや僕みたいな生徒以外、排除したいって思ってる教師ですよ」
“排除”か。
昨日放課後まで捕まっていた。俺の言葉は信用されず、証拠もなく疑われたまま。校長以外まだ納得してもいない。それが嫌だった訳でも気にしているわけでもない。ただ、胸糞悪いのは言うまでもない。
「あ、それで今こうして勉強してるんですか?蓮さんを独占してる上に、誰の手も届かない程相応しくなろう、ってことですか。欲張りだな」
にこりと微笑んだ幾瀬は、すぐに表情を固くして続けた。
「蓮さんが傷ついてるのは分かってますよね?きっと僕にはどうにも出来ない。だから…本当は死んでも言いたくないことを言います」
「……」
「見返してくださいよ。蓮さんを否定した全員」
真剣な眼差しだった。
本当に蓮が好きなんだ。邪魔でしかないはずの俺にそんなことを言ってまで、蓮を傷つけた奴を屈服させたいと思うほど。
「お前、俺のこと馬鹿だとでも思ってるのか」
結局その日図書室での勉強は捗らず。帰宅してから必死にやった。暗記物はそれでいい。英語は理解できる範囲全て解く。一番面倒な数学も。
蓮にここが出そう、これは絶対覚えて、そう言われて頭に詰め込むのは毎回のことだけど、自ら進んでこんなに勉強するのは初めてだった。もちろん、受験前はそれなりにしていた。けれどそれは蓮と同じ高校に行きたい一心で、だ。
良い成績がなんだとは今でも思う。でもそれじゃだめなら、蓮の隣に居るための努力はしたいと、思ってしまった。
「愛敬〜お前今回頑張ったなあ。職員室でも話題になってたぞ」
テストという憂鬱から解放され、見たくもない答案を返却され、今回のテストの学年順位、クラス順位の書かれた小さな紙を渡された日。担任の生駒は酷く機嫌良さげにそう言い、あろうことかガシガシと俺の頭を撫で回した。
「、おい、生駒」
「偉いぞ〜」
小さな紙に印刷された自分の名前の下にはいくつかの数字の羅列。学年順位、32/269、クラス順位、6/39。微妙な順位だ。ぱっとはしない。けれど、担任は物凄く嬉しそうだった。
「やれば出来るって、みんな言ってたぞ」
拒絶したはずの彼の手はまだ俺の頭の上。厚い掌の感触がなんだか懐かしくて、けれどクラスからの視線はすごく痛い。
「やる気になった理由は聞かない、分かってるつもりだから。それにまだまだ上にいけると思ってる。でも、お前のこの努力は、きっと何かを変えられるから。少なくとも俺は、お前の努力が嬉しかった」
くすくすと沸いた笑いの中、生駒は俺にしか聞こえない声でそう言った。臭い言葉だったけど、胸には響いた。離れていった手は次の紙切れを掴んでいた。
「伊藤」
俺は踵を返して自分の席についた。
隣に座る蓮は、俺のそれを見て目を見開いた。答案用紙を見せたときから驚いてはいたけれど、満面の笑みで「頑張ったね」と言ってくれた。蓮の微笑みだ、毎日見たって慣れない、息が詰まるほど綺麗な。眩しくて、けれど優しい。何よりも綺麗で、美しく、そして凛々しい。
俺はそれを守りたかった。
「蓮」
俺には武器になるものなんてないから。
蓮がいなければ何も出来ないと思われるほどダメな人間で、それでも俺が否定されるだけなら我慢できた。ただ、それが蓮の恥になるなら、誰にも何も言わせない存在に俺がなるしかない。いつか蓮にまで恥だと思われないように。
「愛してる」
努力したいと強く感じた。何もしないで、守れないで、離れてしまう日が来るかもしれないと考えたら怖くて。
それからもうひとつ。俺は俺を、情けなく、そして恥ずかしいと思っていることに気づいてしまった。守られていた。自分だけじゃ教師一人とまともに話すことさえ出来ないのだと。
それに、幾瀬は言った。“俺たちの仲を引き裂こうとは思わない。でも亀裂が入ったときは喜ぶ”と。隙さえあれば狙ってくる。それも嫌だった。隙など与えない。そう、誰にも隙なんて期待させない。そう決めた。その為にまず出来ることをはこれだった。目の前に“勉強”があり、それで少しくらい蓮に近づきたかった。
「愛してるよ」
蓮の耳元に口を寄せて、繰り返した。
俺には何もない、蓮を思う気持ちと、その気持ちが誰よりも大きいという自信しか。蓮が槙に言われたことは帰ってから聞こう。槙に何か言い返すのも、後でいい。
あの煙草の真相だって俺には伝えられるべきだろう。でも、とにかく今は蓮に伝えたい。
自分の順位にガッツポーズをかます奴、嘆く奴、笑う奴、そんな彼らの声を瀬に、蓮にしか聞こえない声で続けた。教室の片隅で。
虎の声は少しだけ揺れていて、
けれど僕の心はもっと揺れて
吐息の熱さに魘されそうだった
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